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他人を尊敬しない生き方のすゝめ

私は基本的に他人を尊敬するのが苦手です。

より正確に言うと、身近な人間を尊敬することができません。

具体的には、友人、知人や上司、両親などを尊敬することができないのです。もしかすると「尊敬」という分類に入れない、という表現が正しいかもしれません。

もちろん、私が他人を尊敬する必要がないほど有能であるとか、自分に自信を持ちすぎた尊大な人間ということではありません。

今日はこの事について自分の頭の中を整理していきたいと思います。

身近な人間は粗が目立つ

まず、根本的に私が身近な人間を尊敬できない理由がここです。

仕事でとても優秀であったり、知識や経験が優れている人は私の周囲にも多く存在します。

しかし、それらの人々は皆、何らかの欠点を持っています。性格に癖があったり、時間にルーズだったり、コミュニケーションに支障を来たすレベルの口下手であったりです。

もちろん、その人達を優秀だと尊重はしています。私の及ばないその能力を認めてもいます。

ただ、私の中で「尊敬」という言葉とは一致させられないのです。

その人とどう戦えるか、を考える

次に、優秀な人と接したとき、私は常にその人とどう戦うか、あるいはその人を一緒に参加したゲームに置いてどう機能させるか、を考えてしまいます。

つまり、相手のあそこの部分は敵わないが、ここの部分なら勝負できるという考えに走り、相手を無条件で称賛するという行為にたどり着かないのです。

あるいは、優秀なあの人の力をどう使うか、運用できるかを考えます。この場合において私の頭の中では役回りが、優秀なあの人は飛車や角といった将棋の駒であり、私はそれ指す棋士になっています。

その結果、いわゆる「尊敬」という表現が使うには難しい感情を持つことになります。

偉人ならば尊敬できる

では、私には誰も尊敬する人間がいないかというとそうではありません。

私の実生活と極端に乖離した存在であれば尊敬できます。

ただ、こちらも時間軸までずれている方が尊敬に至りやすいため、歴史上の偉人などが当てはまります。

特に、歴史上の人物は人間性に難を抱えていても私とは全く接点がないため、その評価を下げたりする要因になり得ないからです。

余談ですが、明治期の物理学者兼随筆家の寺田寅彦を私は個人的に尊敬しています。物理学者でありながら文学的センスに溢れたその文章や言葉選び、そして科学に関する思想的な部分は大きく尊敬できます。

周囲を尊敬しない生き方は楽

これを他人におすすめして可能不可能は一旦脇に置いて、基本的に自分の周囲を尊敬しない生き方はかなり気楽です。

なぜならば、劣等感に苛まれることがないからです。

自分の周りがすごい人ばかり、という状況はどう考えてもしんどいはずです。

でも、そんな能力の高い人にも欠点や弱点はあり、それを比較すれば大したことはない、と考えるだけで自分の存在を肯定的に捉えられるのではないでしょうか。

実際、自分の周囲にいる人間にそんな大層な人物など殆どいません。あなたの周りに歴史の教科書に名前を残すレベルの人がどれだけいるでしょうか。

少なくとも私の周囲には一人もいません。私よりも優秀だとしても、教科書の端書きにも載らないレベルの凡人、浅学非才でしかないのです。

まあ、広い世の中には傑物のそばに生活する人もいるかもしれません。でもその人だって人格的には問題があるかもしれません。もしかするとあなたが見えていないだけなのかもしれないのです。

努力をしない言い訳にするのではなく…

この考え方は、みんな大したことがないから自分も努力しなくていい、という結論に至るために用いているわけではありません。

あくまで自分の周囲にいる人間と比べて、自分もそう捨てたもんじゃない、と前向きになるための根拠付けであるということです。

とりあえず、私はこの考え方であまり憂鬱な気持ちや自己嫌悪に陥ること無く暮らせていますので参考までに。



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