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自分を客観的に見る。

若手家族たちは、自己分析がとても上手い。
上手という言い方は変かも知れんが、自己分析が下手な自分からすれば「上手い」とか「お上手」が、ビッタリくる。
自己分析できる人は、自分を客観的に見れる人だと思う。
客観的ってめっちゃ難しい。
辞書等を調べると、
[主観的ではない]とか、
[誰が見ても最もだと納得できる考え方をする様子]とか、
[特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま]とか。
この感覚で自分自身を見るというワケだ。
うーーーん…(汗)
自分に対してとなると、非常に解りにくい。
理解し辛い感覚。
一般的で平均的な感覚が欠落気味だと感じてる自分には、到底無理。
と、思ってたんだが、どうやらそうでも無さげ。
[客観的]ってのが、具体的にどんな感覚なのか分からんが、自分なりの[客観的に自分を見る方法]がある。
設定は簡単。自分の知り合いの1人を自分にしてみる方法だ。
自分と全くおんなじ人がそこに居ると想像する。
自分と全くおんなじ人の行動や言動を見聞きした時、本体の自分はどう思うか。
これが自分なりの[客観的に自分を見る方法]。
このやり方が正解なのか不正解なのか分からんが、時折この見方をしてみる。そうすると自分キモっ!と思う時がある。
主観的で、物の見方が自分自身とピッタリくっついていると、キモいという感覚はない。
なのでキモいと思ったり、何か違和感があったりするならば、それなりに自分を客観視できてるのかも知れん。
「あれ?今の自分の思い、なんかおかしくねぇ?」
と、気付きが出始めると、客観視も小慣れていくだろな。

少しずつだが、自分の思いに立ち止まるようになり、ここ最近で自分の性質について、気が付いた習性がある。
自分はスゴい飽き性だっちゅーこと。
今更だけど、今更気付いた(笑)
で、思い出した。
飽き性な自分が許せなくって飽きない自分を作り続けたこと。
飽きずに1つの事に執着を持ち、思い続ける性質になるために、自分自身を作り変え続けてた。
だから、メッチャしんどかったんだと今頃にして気付く。
飽きそうになる自分を責め続け、「自分が飽きる訳ないだろっ!」と、自分自身に刻み続けてた。
“飽きる”ことは自分にとっての禁断行為。
あってはならない事だったんだ。
思い返せば、物心ついた頃から、あるままの自分自身を受け入れられず、気が付いたら自分自身の姿に理想を抱き、そこに はめ込むように自分を誘導してきた。
本来の性質の自分は、ぎゅうぎゅうに ねじ伏せられ、自分の奥の奥の方の壁に、ペラッペラにのされた状態で張り付けられていて、どこにあるかも分からない感じだ。
ここ最近、そんな自分を発見しつつある。
これは本当に喜ばしいこと。
元々あったはずの自分の性質。
忘れ去られていた自分が明らかになる。
これから続々と、幾つものペラッペラが明らかになるだろう。
まさに、これからだ(笑)

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