型の解釈の相違

居合には、無双直伝英流、夢想神伝流、長谷川英信流、無外流など数多くの流派が存在する。
基本的には各流派とも、独自の型を持っているが、中には似たような型も存在する。

例えば、無双直伝英信流の初伝「前」という型などは、おそらく基本的な型として、どこの流派でも存在していると思われる。
ただ、似たような型であっても、それぞれが独自の方法論、見解を持っていたりするため、細部の部分で微妙に異なっていたりする。
そして、これは異なる流派だけでなく、同流派内であっても、所属する連盟や、道場によっては解釈や仮想敵の状況が違ったりして、細部で相違がみられたりすることもある。

この「型の解釈、「仮想敵の状況」の違いなどが、時に軋轢などを生じさせたりするケースもあるが、個人的な見解を言わせていただくと、どちらの型が正しい・正しくないなどはなく、型に正解などない、というのが本音である。

この問題の本質は、型を稽古する目的の部分で、すでに理念が相違していることが原因と思われる。
(この問題について考えるとき、どうしても居合道と居合術(抜刀術)の違いなどについても語らなければいけなくなるが、今回は省略します。またいずれ書きたいと思います)

型の完成がゴールなのか、型はあくまでも稽古なのか。

そもそもの源流を辿っていけば、居合の本質は刀の操法を学ぶことである。

なので、個人的に、型はあくまでも自由に動ける身体作り、臨機応変に対応できる抜刀・刀捌きの稽古でしかないと思っているので、色んな解釈・方法・仮想敵で型を稽古してみるのが一番いいかなと思っています。

読んでいただきありがとうございました。

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