何者にもなれないから写真を撮る
学生最後の夏休みが終わり、後期が始まった。
夏休みボケが抜けないままで、初っ端の授業の予定を勘違いしすっぽかしてしまった。今年の夏はすごく良かった。夏休みらしいことができて心から良かったと思えるそんな夏休みになった。
話は趣味の写真に移る。
カメラを買ってもらい、写真を撮ることが趣味となり5年。いつでもどこでもカメラを持っていく。
コロナ禍に入ってから尚更撮る機会が増えたように思う。それまでは、日常の中でも特別な日にしかカメラは登場しなかったが、後々色んな経験を経てそれがすごくもったいないことだったと気付き出かける際は常に持ち歩くようになった。
特に友達との外出で写真を撮れることが嬉しくて、ついついシャッターを沢山切ってしまうのだけれど、みんな恥ずかしいと言いながらも私の趣味を理解してくれているため(そう思ってる)嫌な顔は一切せずに応じてくれる。
夏休みの思い出でインスタのギャラリーが埋まったところで、一つ思うことがあった。私ってなんで写真を撮っているんだろう、写真の何が好きなんだろうって。そこで出てきた答えがタイトルにもあるように「何者にもなれなから写真を撮る」だった。
高校生から大学在学中、何者かになりたいとずっと思ってきた。今言えることは、何者にもならないし、なれないし、なる必要もないじゃないかってこと。何者かになりたいと執着していた頃は、とにかく比べて比べて評価の基準が常に他人で、他人軸で生きているから埋まらない。
インスタでもさ、つい最近まで相互だった人が急に上手なレタッチで人気が出だしてフォロワー1万人超え、私はリムられるなんてこともあるように、急に何者かに昇格したように見える人だっている。
けれど、私の写真の撮り方は変わらないし、レタッチだってものすごく大きな変化があるわけでもない、それでも私は私の写真が好き。
だから何者にもならなくていいや、なれないからこそこうやって大切な思い出・忘れたくない感情を切り取って記録を残すことが使命なんだって思うようになっていた。何者にもなれないからこそ残すんだと。
こんな写真が撮りたいなとか、この人のような写真は私には撮れないからすごいなって思うことはもう山のようにある。だからといって、自分に写真の価値が下がってしまうことはない。写真は唯一私の中で確立されたものであるから、比べる必要がない。
写真を撮ることで何者かになれたらそりゃ嬉しいよね。
一番好きなことだし。でも、最近はカメラを持つ人も多いし、何者かになるほうが難しいと実感することのほうが多い。特別上手いわけではないけれど、やっぱり写真を共有できる場所があるのは嬉しい。
自分が良いなと思ったものを共有できて、それを同じように良いと思ってもらえる、それが楽しいし嬉しい。
最後に何枚かインスタに載せた夏休み写真載せます。