見出し画像

【~連載~静岡の歴史を学ぼう127】Sumpu Okakoi Tsutsumi Part1   駿府御囲堤 パート1

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。



「駿府御囲堤」は地元では「薩摩土手」として知られています。

徳川家康公は大規模な土木工事を行って、駿府の街を豊かにしました。

Sumpu Okakoi Tsutsumi Part1

駿府御囲堤 パート1


Sumpu Okakoi Tsutsumi is a levee built during Lord Ieyasu’s ruling period in Sumpu.

駿府御囲堤は家康公の駿府大御所時代に作られた堤防です。

現在の駿府御囲堤

The Edo feudal government and Tokugawa Ieyasu started public works projects called ’Tenka-bushin” to take advantage of the feudal lords across Japan.

江戸幕府と徳川家康は「天下普請てんかぶしん」と呼ばれる公的任務を始め、日本中の大名の力を上手く活用しました。

This project enabled the construction of Sumpu Castle and infrastructures in the city of Sumpu under Lord Ieyasu’s supervision.

このプロジェクトがあったからこそ駿府城と駿府のインフラ整備が家康公監督の元、工事が進みました。

Along with Sumpu Castle, Sumpu Okakoi Tsutsumi was one of the most important infrastructures in Sumpu

駿府城と並んで、駿府御囲堤は駿府の最も大事なインフラの一つです。

駿府城巽櫓と東御門 提供:静岡市

This levee prevented the Abe River from overflowing.

この堤防が安倍川の氾濫を防ぎました。

(注!洪水 flood は乾いている土地が水浸しになること。overflow は川があふれる現象。

ですから「洪水」ではなく「氾濫」としました)

This levee is known to the local people as ‘Satsuma Levee’, which means ‘The Levee of Satsuma Province’.

この堤防は地元の人々には「薩摩土手」として知られています。薩摩地方の土手を意味します。

薩摩土手之碑   

According to tradition, the Shimazu clan from Satsuma province constructed this levee under Tokguawa Ieyasu’s order.

言い伝えによると、薩摩の島津藩が徳川家康の命令でこの堤防を建設したと言われています。

However, there is no account to support this story.

しかし、その説を裏付ける説明はありません。

So experts recommend using the formal name ‘Sumpu Okakoi Tsutsumi’, which literally means ‘The levee enclosing the city of Sumpu’.

ですから、専門家は「駿府御囲堤」という正式名称を使うことを薦めています。

文字通り、「駿府の街を囲む堤防」という意味です。

日本土木学会は駿府御囲堤という名称を使っています。

The original levee was about 4.4 kilometers long, from Inomiya Shrine on the west side of Mt. Shizuhata to Nakano Shinden (new rice paddies in the Nakano area).

元々の堤は賤機山の西にある井宮神社から中野新田(中野地区にある新しい田んぼ)までおよそ4.4キロメートルありました。

すぐ向かいにある井宮神社

The construction of this levee integrated the Abe River and the Warashina River into one.

この堤が造られたことで、安倍川と藁科川が一つの流れにまとめられました。

The change in the river flow expanded the residential and agricultural areas in Sumpu.

川の流れが変わったことで、駿府に住める場所と農地が広がりました。

現在の安倍川

The feudal government encouraged converting the reclaimed land into paddies to increase rice production for farmers and tax revenue for the government.

幕府は土地を開拓して田んぼにするのを推奨しました。農民の米の収穫量を増やし、幕府への納税を多くさせるためです。

参考文献:東海道駿府城下町(上)――― 東海道中核都市の誕生

建設省静岡国道工事事務所 企画・監修

社団法人 中部建設協会 編集・発行

駿府御囲堤  静岡市葵区藤兵衛新田

(正式な町名は藤兵衛新田と聞いて、ビックリです。安倍街道沿い 井宮町のすぐ近くです)

    真向いの井宮神社の敷地から撮影しました。


いいなと思ったら応援しよう!