救世主
何気なくものを買う、ということはない。
買うのはもともと必要なものか、その場で見つけたものでも、散々迷ったあげく、やっぱりほしいと思ったものかだ。値段が安くても高くても、そのスタイルは変わらない。
この前、ガムを買った。何気なく買ったのではない。迷いはあった。ガムは生活必需品ではないし、食べなくても死んだりしない。ガムを噛んでいないと精神的におかしくなってしまう人や、ガムを噛んでいることで何かに集中できる、という人はいるのかもしれないが、私はそういうタイプではなかった。買っても買わなくてもいいものを買うのは、私の主義に反する。でも、どういうわけかこの時は、このガムをどうしても買わなければ、と直感的に思ったのである。それは、いたって普通の板ガムで、フレーバーごとに森とかペンギンとかイルカといったモチーフが書かれているものだ。普段からガムを噛む習慣があるわけでもないのに、これいるんだろうかと内心自問自答しながら、いつの間にかそのガムの森の味を手にして、ただそれだけを持ってレジに並び、帰ってきてしまった。奇妙な買い物だった。
帰ってきて、テレビをつけた。こちらは、何気なく。私は目が悪く、内容そのものはコンタクトを外すとよく見えないので、本当に何気なく見るしかない。ぼやけた映像と、音声が流れるのを聞きながら、先ほど買ったガムを取り出してみた。ガムって、いつ噛めばいいんだろうか。小さい頃は、お菓子みたいにガムを食べていた記憶がある。子ども向けのガムだから、大体あまいグレープとかレモンとかの味がした。風船ガムというのも気に入っていた。でもそれは、10年以上も昔のことだ。大人になって、ガムを食べることは滅多になくなり、たまに焼肉屋さんで帰りがけにもらうくらいの存在になっていた。だから、ガムを噛むのに頭を悩ませるなんて馬鹿みたいと思うが、実際、食べるタイミングがよくわからなかった。お腹が空いている時にガムを噛みたいとは思わないし、甘いものが食べたい時もガムでは悲しいし、お腹が満たされている時にガムはいらない。とにかくガム、いらないのだ。
テレビでは、ニュース番組を放映していた。どこかの国で、紛争が起きたというニュースだった。武装した男たち、逃げまどい、泣き叫ぶ血だらけの人々、粉々に砕けた窓ガラス、倒壊した建物の群れ。こんなの、何気なく見るに耐えない。今年も初詣で、例年通り、世界平和を願ったというのに。神様が違うから、だめなのだろうか。つらくなって、ガムを噛むことにした。ひたすらガムを噛もう。これはきっと、ガムを噛むのに正しいタイミングだ。
ぴりぴりと、赤い紐を引っぱって、包みを破る。紙と、銀紙とにきちんと包まれた、平たいガムが数枚。整然と納められたその佇まいには、何度見てもささやかに感動する。一枚だけ取り出して、深緑色の紙に書かれた文字に目を通す。糊付けされたところを慎重に剥がすと、控えめな光沢のある銀紙があらわれる。丁寧に、銀紙を開く。するとそこには、表面に粉を纏い、灰色がかった薄緑のガムがあった。久しぶりに見た気がする、この光景。ひと息に口に放りこむと、ミントの香りが、さぁっと風のように広がっていく。しばらく、無心で噛む。
なんだかやけに、あたりが静かだ。さっきまで、隣の家から夫婦喧嘩のような音がしていた。はっきりとは聞こえないが、言い争いの声と、お皿が割れるらしき音がして、関係のない私でさえ、ひやひやしていた。どこもかしこも、争いというものが絶えない。皆さんどうかお願いですから、争ってぶつかって傷つけあうのはやめてください。そんな祈りが届いたのか、テレビからも、しだいに音が聞こえてこなくなった。ボリュームを落としたわけでもないのに変だな、と思って、画面に目を凝らす。
驚きを通りこして、静止した。さっきまで映されていた紛争地帯の様子が、まるで違っていたのだ。軍隊は、武器を置いて座りこみ、仲間と楽しげにおしゃべりをしている。何人かの男女が、割れたガラスを箒ではいている。家の修繕を試みている人も、怪我をした子どもたちの手当をしている人もいた。あたりの惨状と人々の態度が、あまりに不釣合いだった。突如として、停戦協定でも結ばれたのだろうか。それともこれが、まさしく奇跡というものか。
隣の家から、ゆったりと寄せる波に水車が回るような、楽器の音が聞こえてきた。どうやら喧嘩はやめにして、アコースティックギターを弾き始めたらしい。その音に合わせて、綺麗なソプラノの歌声が重なっていく。あとから、優しいアルトが追いかける。ふたりの声が唱和し、思わず口ずさみたくなるようなメロディーが繰り返される。なんてロマンチックな夜。まるで外国の映画みたい。今夜の月は、きっと満月ね。・・・え?
何が起きているのか、さっぱりわからない。あんなに喧嘩していた二人が、一瞬のうちに仲直りしたのだろうか。紛争にしたって、ほんの一瞬のうちに治まるなんて、何かがおかしい。私は眠ってるんだろうか。いやそれはない、だって、ガムを噛んでいたのだ。ガムってどちらかというと、覚醒するためのものではなかったか? とりあえず、こんなに世界は静かになって、平和が訪れた。感謝しよう、何かに。とにかく、なんらかの神秘の力が働いたとしか考えられないから、神秘的な何かに。私は、味のしなくなったガムを紙に出し、ゴミ箱に捨てた。それから、手を組み・・・感謝の祈りを捧げることは、できなかった。唐突に、また争いが再開されたのである。
世にも恐ろしい戦闘が、テレビに映し出される。銃声、煙を上げる家々に、流れる血。隣家からは凄まじい罵倒、ものを投げつけ合う音。どこかで吠えつづける犬の声。この世界、錯乱している。いいや、私か、私が錯乱しているの。平和ってこんなにも続かないものだろうか。まず、争いの前と、一時的な休戦との間に何があったか思い出そう。ええと・・・あ、ガム。ちょうどガムを噛み始めたあたりで、争いが鎮められた。では、争いの再開は? それも、ガム。ガムを出して捨てたら、そういうことになっていた。それなら、神秘の力を宿しているのは、ガム・・・??
あわてて、もう一枚、ガムを取り出す。さっきのように、ぺりぺりと悠長に包みを開いている場合ではない。大急ぎで、紙を破る。ガムを口に放りこむと同時に、ミントの風が吹き抜けた。そうしたら、どうなったか。果たして、争いはやんだ。それも、瞬く間の出来事だった。閑静な住宅街の夜は、静かに更けていく。間違いない、これはガムの力だ。私がこのガムを噛んでいる間は、世界を救えるのだ。どう解釈したものか、まったく理解不能だが、世の中何がどこで繋がっているかなど、誰にもわからない。これはそういう、まだ解明されていないこの世における可思議な作用が、ガムを通じてなされているということを示しているのだ。そうに違いないと、また、直感的に思った。ガムの味が薄くなってくると、急いでまた一枚、また一枚とガムを取り出して、噛みつづけた。私に今できることは、これしかない。
何枚目かのガムを取り出し、ちらりと確認したら、残り一枚だった。どうしよう。ガムを噛んでいる間、世界は静かだった。今は、私に見えている範囲に限らず、この世界のあらゆる全てが、平和に満たされているのではないだろうか。そうだとすると、このガムがなくなってしまった時、世界はどうなるだろう。また同じ争いが繰り返され、命を落とす人もいるだろう。私がガムを噛んでいれば、その間は、誰も傷つかず、命は守られる。責任重大どころではない。このガムには、人の命がかかっている・・・なくなれば、人を殺すも同然だ。大変なことになってしまった。
気が動転した私は、玄関を飛び出し、コンビニに走った。先ほど買ったのとまったく同じガムを、両手に掴めるだけ掴んで、レジに駆け寄る。お釣りもそのままに急いで家に帰り、包みから出したガムをばらばらと床に広げる。この世界を守らなくては。もしかしたら、私は、このために生まれてきたのかもしれない。今日という日にこのガムを手に取り、テレビをつけ、ガムを食べる、その一連の流れは、生まれる前からあらかじめ、定められていたことだったのかもしれない。やはり、私が何気なくものを買う、なんてことはありえなかったのだ。何気なくどころか、これは私に託された、唯一無二の使命だったのだ。
何があろうと、ガムを噛みつづけなければならない。雨の日も風の日も雪の日も、健やかなる日も病める日も、食べる間も働く間も、遊ぶ間も寝る間も惜しんで。噛む力が尽きる、その日まで。
この先一生、命をかけて、私がこの世界を愛するのなら。
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追記:かつてガムが異常にすきでした。今はあまり食べません。諸行無常。