つり革 ~ 短編笑説② ~
雲というものはもうこの先何十年と現れることはないだろう、そんな錯覚を抱くほど空は深く澄み渡っていた。
大型ビジョンでは女性アナウンサーが淡々とお昼のニュースを読み上げている。メインのトピックスはアトラクション型最新車両のお披露目試乗会が本日行われるというものだった。実際に JR 新宿駅を出発し、定められた区間をノンストップで走るという。
開発コンセプトが『日本にワクワクを。街にドキドキを』であること、国土交通大臣が来賓として来ることも合わせて伝えられた。
僕はそのお披露目試乗会の一般参加者の一人だった。
その為にここ新宿駅まで足を運んでいる。
いわゆる鉄オタではなかったが、僕は幼い頃から電車が大好きだった。
とりわけ凝った特殊な型の特急電車などより都内を走る普通の電車に興味を覚えた。
そんな僕にとって試乗前のこの時間は、本来、期待と高揚感に包まれる至福のひと時となるはずなのだが、今現在、僕の中では苛立つ感情が大半を占めている。発車予定時刻が近づいているのにも関わらず、一緒に参加しなくてはならない男が姿を現さないのだ。
待ち合わせ場所を新宿駅構内ではなく、自分がそこしかわからないと言う理由でわざわざ東口広場にしたのもその男だ。
男の名は野口洋一という。野口とは中学、高校が同じで、昔から自分がこうと決めたら周りが全く見えなくなるタイプだった。
それで自分勝手な変人と見られることも度々あった。また勝負事が弱いくせに、負けず嫌いなところも少し厄介だった。
僕とは、あることをきっかけに友達付き合いが始まり、かれこれ十数年になる。お互い社会人になってからはすっかり付き合いも減り、毎年数回、酒を酌み交わす程度となったが、それもこちらの都合はお構いなしに呼び出されるものだった。酒の席においては会話中の英語禁止だの、店のメニューを端から順番に食べていくだの、奴の思いつきで何らかのルールを設けるのが決まりとなっていた。
10 日ほど前、野口から電話があった。いつもの強引な誘いだろうと思ったが、内容は予想外のものだった。
野口は知人から最新車両のお披露目試乗会の権利を譲り受けたらしく、同行者一名 OK ということで、電車好きの僕に連絡を寄こしてきたのだ。
試乗会に参加できるとわかったときには、奴と出会ったことを心より神に感謝にした。
その奴が来ない、発車時刻までもう 10 分を切っているというのに。奴が来ないと僕は試乗会に参加できない。
何せ僕にはそれを証明するものが何もない。強引に乗り込もうとすれば軽くつまみだされるだろう。僕が神への感謝をきっぱり取り下げようとした矢先、野口が目の前に現れた。
「さぁ。いくぞ。間に合わないぞ」
野口はそれだけ言うと、小走りで新宿駅構内へ入っていく。
僕はとにかく奴を追いかけるしかなかった。
野口はここ数年鍛えた身体を誇示するように、いつも黒のタンクトップを着ている。その上に温度調節用のシャツを羽織るのがパターンだった。
僕は奴を見失わないようにシャツの柄をインプットし、スピードアップしたその背中を必死に追いかけた。
僕たちは階段を全力で駆け上り、すんでのところで受付を済ませ、なだれ込むように最新車両に乗り込んだ。
「何とか間に合ったな。まぁ俺はどっちでも良かったけどな」
野口は汗を薄っすら滲ませる程度で早々と憎まれ口を叩いてきたが、息も絶え絶えの僕には対抗できる余力はなかった。
「でも何が最新なんだ?普通の在来線と何も変わらないじゃないか?」
確かに奴の言うように車内を見渡すとこれまでの一般車両と何ら変わりはないように思えた。
「そ、そうだね。でも走りだしたら新しい趣向や工夫とか、わかってくるんじゃないかな?」
僕は息を整えながら期待を込めて言ったが、奴の表情からは期待感は伺えなかった。少し間を置いて野口は意を決したように言い放った。
「よし、決めた!つり革は持たない!」
奴の言葉は時に理解できないことがある。
「俺、このまま立ったままで、つり革は持たない!絶対つり革持たずに耐えて見せるから!つり革持つと負けた気するし」
何を言い出すのかと思ったら、またどうでもいい『自分ルール』を定めたようだ。
「つり革持つ、持たないは個人の自由だし。誰に負けるかは知らないけど、僕は遠慮しとくよ」
巻き込まれてはたまらないとばかりにすぐさま僕は予防線を張った。
「いいよ。おまえはその様子を見といてくれれば」
何とか参加は免れたようだった。
ジリリと発車ベルが鳴る。
と、同時に奴が叫んだ。
「つり革につかまりたくないよー」
その時、僕はふと引っ掛かっていたことを思いだした。
アトラクション型最新車両?アトラクション型ってどういうことなんだろう?
新宿駅を出てからすぐに野口は自分の定めたルールに従い、車両の真ん中あたりでつり革を持たずに耐えている。どうやら内股に力を入れてバランスを取っているようだった。
こういう 1 人で無意味に耐えている人はどの電車でも一人はいるものだが、ここまで目が血走った奴はそうはいないだろう。
僕たちが乗り込んだ車両には 20 名ほどの試乗参加者である乗客がいた。
多くの乗客は意識的に野口の方を見ないようにしている。
僕も野口からは少し離れた縦シートの一番端に座っていた。
間もなく電車は大きく揺れ出した。
野口も電車の揺れに合わせるかのように振り回されている。
もう結構動いているじゃん。
内心、僕は思ったが、口にするのは控えた。
僕は試乗会を楽しみたいだけだった。奴の挑戦はどうでもよかった。
それでもずっと振り回され続けている奴を見てしまうと、
声を掛けるしかなくなった。
「周りに迷惑かかっちゃうから、耐えるんなら耐えようよ」
しかし野口は耐えるどころか左右の壁に身体をバンバンと激しくぶつけ出した。
「いったいこれは何線なんだよ?」
もちろん僕のつぶやきに答えてくれる者などなく、
つかまるところのない乗客はシートの上で懸命にバランスを取っていた。
端っこに座っていた僕はただただ手すりを頼りにした。
どんなに記憶を辿ってもこんなに揺れる路線に乗った覚えはなかった。
箱根登山鉄道でもこんなに揺れなかったと記憶している。
野口の方を見なおすと、ひたすら揺れに身を任せ中国拳法の達人のような奇妙な動きになっている。
「もう耐えてないよね!?揺れに身を任せちゃってるよね⁉」
大きな声で話かけるが、野口がこちらを向くことはなく、そのうちに床に仰向けにひっくり返った。
「ちゃんと立てよ!耐えるって言ったろ?ちゃんと耐えろよ!」
僕の声は全く耳に入らないのか、奴は床の上で時計周りに回転し出した。
「ぐるーんって、なってるから!」
僕の声のボリュームが自然と上った。他の乗客もさすがに野口の方を見ずにはいられなくなってきている。
若干揺れが小さくなったことを機に、奴は立ち上がろうとした。
「そう、ちゃんと立つ!もしくはつり革をつかめ!」
僕は半ば命令口調で声を張り上げた。
野口はそのまま通路の奥の方へと向かっているようだった。
「おい!どこ行く気だ!」
野口の背中に向かって叫んだが、奴はそのまま通路の奥まで行くと、
隅っこの扉を押した。
今まで気づかなかったが、どうやらそれは車両内に備え付けられているトイレ室だった。
トイレ?大丈夫なの?そんな僕の不安はすぐに現実のものとなる。
野口がトイレに入って間もなく、揺れはこれまでと違う破格のものとなった。
途端、奴はズボンのファスナーからイチモツを出したまま、トイレの外に放り出された。
すでに小便は止められない段階に入っているようで、奴は大きく身体を揺らしながら小便をまき散らした。
「汚ねえな!おい!拭いとけよ!」
乗客の手前もあって僕はそう言うしかなかった。
やがて奴はまき散らしている自分の小便で滑って転び、倒れた状態で自分の顔面に小便を浴びせた。
「ひゃ!」
小さい悲鳴が乗客のあちらこちらから聞こえた。
「汚ない!!最悪だよ!!」
僕はすかさず罵声を浴びせた。
野口は観念したかのように小便が終わるまで黙って直接身体に浴び続けた。
この惨劇を目の当たりにした乗客の中には逃げだそうとする者もいたが、揺れが激し過ぎて移動することができないようだった。
⾧い小便はようやくフィニッシュを迎えた。
何かを考えているのか、余韻を味わっているのか、奴はじっと目をつぶっている。
と、突然、次章の幕が開いたかのように連結部のドアが開いた。
大きく揺れながら手押しのカートが入ってくるのがわかった。
「サンドイッチはいかがですかー?」
売り子の男性の声が車内に響いた。なんと車内販売のカートだった。
この激しい揺れの中でも売り子は揺れに臆することなく、上体をくねらせることでバランスを取りカートを進めている。カートの台上にはチュロスらしきものもあった。
小便まみれの野口が倒れたままカートに向かって声を掛けた。
「1 つください!」
「何で買い求める!」
すかさず僕は口を挟んだ。売り子は小便まみれの男を嫌がるわけでもなく、プロの仕事とはこういうものだと言わんばかりにサンドイッチを手渡した。
奴も相当やばいが、小便まみれで寝転がった男にサンドイッチを売るこの売り子も相当いかれている。
「おい!舌噛むぞ。こんなところでサンドイッチ食ったら!」
僕は注意する観点がよくわからなくなってきていた。
野口はサンドイッチの代金として、ポケットから財布を取り出しお金を渡そうとした。
売り子もお金を受け取ろうとしたが、揺れでうまく受け取れない。
野口は手渡しを仕方なく諦め、売り子に向かって小銭を投げだした。
売り子も何とかお金をキャッチしようとするが、一円もキャッチすることが出来なかった。
「ちゃんと拾っとけよ!お金は大事なんだから!なあ!」
お金をばらまいているだけになってる奴に僕は本気で叱責した。
早速、奴に神様の罰が当たった。野口は 1 秒足らず宙に浮いたかと思うとすぐさま床に叩きつけられた。それから奴は何かに押えつけられるように床に貼りついた状態になった。すさまじい重力が野口に圧し掛かっていた。
一旦、重力が弱まると再び奴は宙に浮き、またもや床に叩きつけられた。
僕は一連の奴のありさまから推測した。
これは神様の罰なんかじゃない。さっきからこの電車は線路上を上下しながら走っているのではなく、線路無視で車両ごと猛烈なスピードで上下しているのだ。
乗客の多くも堪えきれずに奴と同じように一瞬宙に浮いては床に叩きつけられていた。
野口は幾度となく、宙に浮き、床に叩きつけられ、重力で押さえつけられることを繰り返している。身体はとっくに限界を超えているはずだった。
僕は両腕で手すりを巻き込むように握りながら声を張り上げた。
「もういいから、つり革つかめ!死んでしまうぞ!」
僕の声がやっと届いたのか、命の危機を感じとったのか、奴はよろよろと起き上がり、どうにかつり革をつかんだ。が、つり革は瞬時に切れた。
それでも奴は必死に別のつり革をつかむ。またプチッと何の抵抗もなく切れた。次のつり革もその次のつり革も、プチッと切れた。切れ続けた。
「うぉー!強度がない!弱すぎる!」
僕は絶叫した。つり革がつり革の機能を全く果たしていない。
悪い夢を見ているようだった。とにかく奴には弱すぎるつり革を捨て、切れることない手すりを持つように指示した。
「手すり!手すり!手すりを持つんだ!」
大きな揺れの中、野口は手すりを目指して小便の河を這いつくばって進んだ。
野口はどうにか手すりまで辿りつき、両手で手すりを握った。その瞬間、奴は痙攣しはじめた。白目を剥いて骨格もやや透けて見える。野口が持った手すりには明らかに電流が流れていた。電流!?何で? 僕は考えた。
これがアトラクション型最新車両ってこと?違うじゃん。これって・・
「殺人列車じゃん!」
そう言葉にすると、恐怖が僕を包み込んだ。
手すりから何とか手を離した奴も恐怖で震えている。
いや、そうではなかった。
車内の空調の温度が急激に下げられ、小便まみれだった奴の身体が凍りつきそうになっているのだ。
「もう、やばいよ…」
僕は泣き声になっていた
「止まんねえのか!この電車は!!」。
僕が大きな声を張り上げる、とほぼ同時に急ブレーキがかかった。
ドンッ!!!
野口は車両の端の方まで一気に飛ばされた。
僕以外の乗客たちもあちらこちらに飛ばされ呻き声を上げている。
売り子もさすがに耐えきれずにカートごと吹っ飛んで、カートの下敷きになっていた。
「もうめちゃくちゃ人、倒れてんじゃん」
僕は得体のしれない恐さと自分の無力さを嘆き、泣きだしそうになったが気持ちを奮い立たせ大声で叫んだ。
「とにかく降りろ!!死んでしまうぞ!!こんなところにいたら!」
残っている力を振り絞り立ち上がろうとする野口が見えた。
野口はふらつきながら立ち上がると、まず周りに倒れている乗客たちを気づかった。
野口とはそういう男だった。僕と友人になるきっかけもそうだった。
野口は中学生の頃、不良連中に目を付けられよくいじめられていた。
何かあえていじめを受け入れているようなところが奴にはあり、
それが余計に生意気だとされて因縁をつけられることが多かった。
僕はとにかくいじめられるのが怖くて、連中に取り入り仲間のふりをしていた。ある日も野口は連中から寄ってたかって暴力を受け、あげくに小便までかけられた。
おまえも小便をかけろと仲間から命じられ仕方なく僕も奴に小便をかけた。連中はゲラゲラと笑いながらその場を離れていったが、僕はその場で立ち尽くし涙が溢れて止まらなくなった。小便まみれの奴はゆっくり立ち上がると、僕の肩をポンポンと優しく叩いて帰っていった。
次の日、僕は連中から離れた。中学を卒業するまで僕も奴と一緒にいじめられることになったが、奴とは友達になった。
あれから十数年、今日も野口は小便まみれだった。
顔を上げると野口が目の前にいた。
そして僕の肩を大丈夫だからと言わんばかりにポンポンと叩いた。
奴の目はあの時と同じ優しい目をしていた。
野口は自動扉へと向かった。
プシュー!
自動扉が何の予兆もなく開いた。
野口は首だけ出して外の様子を伺った。
一旦車内に首を戻そうとした瞬間だった。
開く数十倍の猛烈なスピードで自動扉が閉まった。
「ぐふぉ!」
野口の首はあえなく自動扉に挟まれた。
まるで中世のギロチンのように、殺人列車は奴の首を狙いすましていたのだ。
「おい大丈夫かー!?」
僕は駆け寄りたかったが、腰が抜けて立てず声をかけるのが精いっぱいだった。
ギリギリギリ…
自動扉は野口の首を引きちぎらんばかりに締め上げた。
ギリギリ…扉はさらに閉まる。
「お、おい・・・」
もう声にならなかった。
と、奴の首が変な方向に曲がった。
「うあああー!!」
僕の絶叫が車内に響き渡った。
ほどなく車内アナウンスが流れた。
「お茶の水~お茶の水~」
思考が停止する中、僕は吐き捨てるようにつぶやいた。
「中央線こんなんじゃねえよ」
大滝国土交通大臣はテープカットの後、新宿の指令センターにそのまま居残っていた。
車両内カメラを通じて一部始終をモニタリングしていたのだった。
黒の革張りの椅子に座ったまま、大滝は首だけ少し振り返って言った。
「『日本にワクワクを。街にドキドキを』とは言え、少しやりすぎじゃないのか?」
「いいえ、お言葉を返すようですが、これくらいでなければインパクトはありません。ただ一つ、今回の試乗車両には本来装着すべきジェットコースター用のシートベルトが未装着となっていました。ミスはそれだけです」
宮本ははっきりとした口調で答えると眼鏡をずり上げた。
「プロジェクト責任者の宮本君が言うんだから、心配はしてないが、後の処理はきっちり頼むよ」
大滝はそう言うと首を元の位置に戻した。
「ご安心ください」
宮本は落ち着いた声で答えると、ひとつ咳払いをした後、話を続けた。
「ご存じのように、この計画は電車に限ったものでもありません。
バスやタクシーなどの交通機関はもちろん、エレベーターやエスカレーター、はたまた公衆トイレや自動販売機に至るまで、都内のあらゆるところにアトラクションとなる仕掛けを施すことになります」
「都市自体がアトラクション化するということだね?」
「そうです。世界に類を見ないアトラクション型大都市の誕生です。これにより全世界から大勢の人々が我が国に押し寄せることでしょう」
宮本の口調は変わらず大きな自信に満ち溢れている。
大滝はゆっくりと椅子から立ち上がり振り向いて言った。
「オリンピックまでに間に合うか?」
宮本は笑みを浮かべながら答えた。
「もちろんです」
大滝は軽くうなずくと、宮本の肩を軽くポンポンと 2 回叩き、その場を後にした。
宮本は窓の外を眺めた。
窓から見える空は灰色の雲で埋め尽くされようとしている。
東京オリンピックはもう 2 年後に迫っていた。
了
※短編笑説 つり革 2022/2
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