【私の感傷的百物語】第三十一話 開かずの間
「開かずの間」という言葉にそそられます。長い間閉ざされている場所には、果たして何があるか。開けてはいけないはずなのですが、どうしても開けてみたい。我が国における神代の物語の中にすら「してはいけない」と言われたことを我慢できず、結局、禁を破ってしまうシーンがあるのですから、まして神の身にあらざる人間は、その禁忌を破るという誘惑に(実行する、しないは別として)常に苛(さいな)まれているのではないでしょうか。
実は我が家にも、開かずの間のような場所が存在していました。それは、もともと米を保存していた蔵の二階で、扉で仕切られている訳ではありませんから、「入らずの間」と行ったほうが正解でしょう。かつては曽祖母が使っていた場所で、別に入ってはいけないしきたりはありません。ですがいつからか、誰も出入りしなくなっていたのです。蔵の一階からは木造の階段が伸びていますが、その下から見上げても、二階は昼夜を問わず真っ暗で、何があるのか皆目見当がつきません。中にある物も、親に聞いても「祖母の嫁入り道具が入っているのではないか」といった程度で、詳しいことは分かりませんでした。
この暗闇に数年前、電球が取り付けられ、その後、二階の掃除と整理が行われました。古い畳敷きの床の上に、農具や鳥籠、座卓、そして大小さまざまな箪笥(たんす)が置かれていました。箪笥の中には着物や当時の新聞記事、布団などの他に、「かいまき」と呼ばれるドテラの親分のような寝具が入っていました。また、道中差しとおぼしき短い刀も出てきて、驚いたことをよく覚えています。時間に取り残されたこれらの品々を運び出している最中、僕はずっと、開かずの間に立ち入ったという緊張を感じ続けていたのでした。
何か特別のルールが存在しなくても、長い間人の出入りが途絶えると、まるで「その場所に行ってはならない」気分になってきます。それは、後々「行ったら何か悪いことが起こるのではないか」という感情すら抱かせるようになる可能性もあるのです。常に鉄板で窓が閉ざされた蔵の二階を眺めていると、その暗がりに物の怪でも巣食っているのではないかと、今でも想像することがあります。
閉ざされた空間になにがあるのか確かめてやろうという冒険心。中に入らない状態で、なにが潜んでいるのだろうと、あれこれ、恐々と、思い巡らす心。僕は両方体験したことになりますが、両方を天秤にかけてみると、個人的には、後者により多くの価値があるように思えたのでした。