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【私の感傷的百物語】第四十四話 K先生の携帯番号
水産食品専攻の大学生だった頃、僕に、水産学の世界の奥深さを教えてくれたK先生という教授がいました。先生は僕が卒業後、二〇一五年に出張先で心臓発作に襲われ、六十代で急逝してしまいました。
その日、僕はちょうど四国で歩き遍路をしている最中でした。愛知県の佛木寺を出て、雨の中、山道へ入ろうとしていた時に、研究室の同期だったM君から携帯に電話が掛かってきました。
「悪い知らせがある」
という前置きから切り出された先生の訃報に、僕はその場で凍りついたように立ち止まってしまいました。
「え、嘘でしょ?」
芝居の中のような言葉が口から出てしまいました。こんなに認めたくない事実を体験したのは、人生でも初めてのことだったので、嘘であって欲しいという強烈な感情が、僕にこのセリフを言わせたのでしょう。
訃報を耳にした僕の脳裏に、遍路へと旅立つ前、最後に出会った先生の姿が浮かんできました。色つき眼鏡の奥にある細い目でこちらをじっと見据えながら、
「いいことじゃないか。行ってきなさい」
と言ってくれたのでした。
魚市場を見学しようかと思っていると相談したら、
「俺も行ってみたい」
と言って、すぐに車を出してくれた先生。
僕が仲間内に向けて書いた魚に関する冊子を褒めてくれた先生。
「ナマズを使った世界最古のかまぼこを作りたい」と話した際に、
「大学の実験室を使っていいから、今度一緒に作ろう」
と賛同してくれた先生。
学生時代からワガママばかり言っていた僕に、いつも付き合い続けてくれた人であった。まだその恩をぜんぜん返し足りていないのに、先生は悲願の住人となってしまったのでした。
「葬式、どうする?」
と電話の向こうから、M君が僕に尋ねました。一瞬、逡巡しましたが、このまま先生の冥福を祈りながら、結願まで歩き続けることを僕は選びました。香典を送るから、代わりに葬儀へ持って行って欲しいという僕の頼みを、M君は快く引き受けてうれました。
電話を終えて、次の明石寺までの道中、僕は大声を出して泣きながら歩きました。木々が生い茂る遍路道に、僕の声と雨音だけが響いていました。
自分の遍路リュックの中には、数日前に宿毛のホテルで書いた先生への手紙が入っていたのでした。昔の魚商人たちが歩いた高知の山道のことについて書いたものです。先生は魚と登山が好きだったので、この情景を伝えたら、きっと喜んでくれるだろうなと思っていたのでした。後に、この手紙は悲しみのあまり破り捨ててしまいました。
それから結願まで、ずっと僕の頭から先生のことが離れませんでした。香川県・一宮寺の近くにある公園を夜歩いていると、原付を走らせて遊んでいた不良風の若者たちから、
「あ! お遍路さんや!」
と声を掛けられました。会話の中で、恩師が死んだことをぽつり、ぽつりと語ると、直前まで嬌声を上げていた彼らが、急にシュンとなっていました。それを見て、ああ、なかなか良いコたちだな、と思ったのを覚えています。
その後も寺に着けば手を合わせ、先生のために経を唱え続け、僕は無事に結願し、遍路を終えました。四国から帰った後も、先生の死が受け入れられませんでしたが、そのうち、夜中に考えごとをしている時、ふと、先生が傍にいて助言をくれるような、そんな気がするようになってきました。
僕の携帯には、今でも先生の携帯電話番号が登録された状態で残っています。思えば、この番号から着信がくる時、僕はいつも期待と緊張でドキドキしながら通話ボタンを押したものでした。先生の話す内容は、僕の想像もつかないようなものもあって、突然、
「海外青年協力隊になって、魚肉加工指導のためにタンザニアへ行かないか」
とお誘いを受けたこともありました。その際は丁重にお断りしつつ、僕は終始、狼狽しっ放しでしたが、それも今となっては良い思い出です。
二度とこの番号から電話が掛かってこないのは分かっています。ただ、この番号を眺めながら思いを巡らすことは、先生の記憶を忘れないでおく意味でも、僕にとって、大切なことなのです。
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