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【私の感傷的百物語】第十六話 七不思議への憧れ

学校の七不思議というのは、各地にあります。江戸時代から本所七不思議という言い伝えがあるので、その系譜でしょう。一時期は多くの学校で流行ったと聞きます。例えば、トイレの花子さん、走る人体模型、動く二宮金次郎像などなど。しかし、僕の通った小学校にも、中学校にも、そして高校にも、七不思議は影もカタチもありませんでした。なければ自分で創ろうとしたこともありましたが、噂を自分で考え、自分で流布するという行為は実に虚しいもので、すぐにやる気がなくなってしまいました。不思議な噂がまことしやかに流れる学校のムードを、一度味わってみたかったです。

七不思議は、同年代の間で通じる秘密の暗号のようなものです。その学校に通い、授業に参加し、校舎を使用している者の中にのみ、異常なリアリティーが生まれるのです。当然のことですが、学校というものは、一度入学すれば、とりあえずは卒業まで通わねばなりません。登校すれば授業という拘束時間があるため、そう簡単に帰る訳にはいきません。たとえ調子が悪くなったとしても、まず向かうのは保健室。すぐに学校から出ることはできないのです。このため、生徒は嫌でも校舎の光景や雰囲気を記憶してしまいます。さらに、同じ経験をしているクラスメイトが、同級生が、先輩後輩が、周りに大勢います。ここへ子供の旺盛な想像力が加わると、噂は単なる噂に留まらず、「本当に起こり得るかもしれない」という現実味を帯びてくるのです。

楽しい、または他愛のないような(校門の犬の像が「ワン」と鳴く、といった)内容の不思議ならば「へえー、そうなんだ」で話は終わるでしょう。ですが深刻な不思議となると、こうはいきません。「見れば寿命が縮む」と伝わる呪いの絵とか鏡の前に立つことは、子供にとっては死活問題となるでしょう。これは言葉の持つ魔力、呪術性とでも言えるでしょうか。学校という特定コミュニティーの中で、言葉が心身に強烈な影響を与える程に力を強めてしまうのです。

そういった噂の言説と対峙し、恐れ、怯え、しかし屈することなく、七不思議を共有する友人たちと一緒に学校生活を送れたら、どんなに素敵なことだったろうと、たまに思う時があります。これは、僕の中にも少々の浪漫派な要素があるせいかもしれません。冒頭にも述べましたが、我が母校のいずれにも七不思議が存在していなかった事実を、僕は残念に思っています。仕方がなく、現在では近所の「伊豆七不思議」に、思いを馳せています。

廃校した後と思われる建物を見ると、つい立ち寄りたくなってしまう。この場所にもかつて、七不思議があったのだろうか。

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