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【私の感傷的百物語】第三十八話 揺れる木々

大風が吹き、大木の枝が揺れているのを見ていると、それだけでぼんやりとした不安感に襲われます。理由としては、僕自身が風というものをあまり好きではないためでしょう。

野外に出て、風吹きすさぶ中を延々と移動している際の疲労と焦燥は、耐え難いものがあります。それは、雨に打たれながら歩くことよりも一、二回りくらい辛いという実感です。
雨天時の雷の恐怖というものもありますが、それはどちらかと言えば、「もし雷に当たったら」という想像からくるもので、直接的に、また持続的に襲ってくる風の恐ろしさとは、毛色が違うように思われます。

現代においても、少なからぬ人は、台風であるにも関わらず、徒歩や自転車で外出しなければならないという、あの危機感に満ちた体験をされていることでしょう。僕は以前述べた四国遍路で、台風の直撃する四国最南端・足摺岬を歩きました。これまでで最も風に対して恐怖を感じたのがこの時です。

民宿は軒並み休業。

ホテルは高額の部屋しか空いていない。

休める場所のあてもない。

笠や杖を飛ばされそうになりながら、マメだらけの足を引きずって、ひたすら荒れ狂う海岸沿いを歩いていきます。僕の人生の中でも、空前絶後の出来事でした。

途中、誤って波打ち際の浜辺を通る「旧遍路道」に迷い込んでしまいました。大洋から風の力で運ばれてきた、背丈ほどもある大波が足元まで押し寄せてきます。その飛沫を顔に浴びた瞬間、

「あ、これは本当に死んでしまうのではないか」

と、妄念が心に浮かんできました。

風に引っ張られた笠の紐が、顎や耳の後ろに食い込み、その痛みよってかろうじて正気を保っている、といった具合です。自然と湧いてくる涙と汗で顔をくしゃくしゃにしながら、警戒放送が鳴り響く道路を進んでいったのでした。

さて、こうした大風の恐怖をさらに加速させるのが、道端で揺れ動く木々たちです。実体を持たない大気が、目に見えるカタチでその威力を訴えかけてくるのです。普段は静止しているものが動くというのは、それだけで人間の心理に衝撃を与えます。
別に台風や荒天でなくとも、普段から僕の実家の目の前に広がる松林は、ちょっと風が強い日には、きっと枝をゆらゆらと揺らします。幼い頃、よく釣りに出かけていた僕は、この揺れる松の枝を眺めては、気分が動揺したものでした。

ただ、ここで留意しておきたいのは、こうした木々たちが、身を挺して我々を風から守ってくれているという事実です。ある時、友人と伊勢神宮を参拝をしたことがありますが、その日は風が強く、神宮敷地内の古木たちは、大きく枝を震わせていました。その姿は僕にとって恐ろしいものではありましたが、同時に、荘厳な雰囲気も漂わせていたのでした。実家周辺の松林にしても、元々は先人たちが努力して育てた防風林です。古の人々は風と戦い、同時に、その恐ろしさを伝える役目を木々に託したかのように思えます。

風を受ける木々に目をやれば、日常の中に潜む、自然の「豪」というべきチカラを、再確認することができるでしょう。

地面から斜めに生える松たち。
写真で見ても、風の力を窺(うかが)い
知ることができる。

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