七面鳥と言ったら怒られた話
ずっと自分の中で封印していた記憶の話。
久しぶりに、紹介でご縁を頂いたコウちゃんのセッションを受けてきた。
私には小さい頃の記憶があまりない。嬉しいとか、好きだったとか、プラスの気持ちは面白いほど忘れている。習い事をいっぱいしていた、何の委員会に入っていたか、とかはあっても、中高生くらいまでの記憶が面白いくらい抜けている。
セッションを通して、かなり自分の記憶や思っていたこと、好き嫌い。
いろんなことを掘り起こしてもらったなかで
「小さい頃の覚えている話はありますか?」
という問いに答えるのが、いちばん時間がかかった。
この話は、誰にもしたことがなかった。親にも、友達にも。
そして、セッションの中で言うことも、少しだけある恥ずかしさに、ためらいがあった。
小学生4年生のときだったと思う。毎週水曜日にクラブ活動が始まったのだ。私は料理をする家庭クラブを選んだ。どのくらいの頻度だったかは忘れたけど、みんなで何を作るかを相談する機会があった。12月のメニューを決める回だった。
12月はクリスマス。多分、テレビか本で見たのだと思う。クリスマスには七面鳥を食べるらしい、と。
何か希望がある人、という問いかけに対して、私は手を挙げて「七面鳥の丸焼き!」と言った。
今、思えば小学生のたかが調理実習では、そんなことはできない。でも、当時の私は、できない理由を知らない。
テレビや絵本の中で見たものを、見てみたい。単純にそれだけの発想だった。
なのに、担当の先生は、私に
「ふざけないでまじめに考えなさい!」
と一喝した。
優しい先生に、めちゃくちゃ怒られている事実。
今まで怒られたことがあまりない私は、周りからは、自分が笑われているような、恥ずかしさや憤りや、もやもや。泣きたいような、反論したいような、いろんな気持ちが渦巻いたまま、何も言えなくなった。
「正しいこと」しか言ってはいけない、「まじめ」じゃないといけないんだ、と心に刻み込まれた瞬間になった。
そこから、自分の意見が言えなくなった。
「正解」しか言ってはいけない。自分の意見は二の次。
いま、大人になった自分が、当時の先生の立場で、当時の私の発言を聞いたなら「どうしてそれがいいの?」と、まず問いかけるだろう。
興味関心だとわかったら、七面鳥は日本ではなかなか食べられないよ、高価だからこのクラブ活動では買えないけど、その代わりに手に入るニワトリでローストチキンならできるかな?とか。
学校の施設じゃ想像しているものは無理だから、ニワトリの足だけにしようか?と、なぜそれを言ったのかと、できないなら近しいことだったり、できることの提案を言ってあげられる。
作りたいものを考えよう、は、今でいえばブレスト。
ブレストのグランドルールは「否定しない」こと。
理由も告げられないまま、「ふざけないでまじめに考えなさい」と言われた私の心はずっと不完全燃焼だった。
どうして?なんで?あの日から晴れないモヤモヤを誰にも言えなかったのは、「まじめではない」私自身を隠そうとしていたのだと思う。
中高と、まじめに生きてきた。今思えば、もっと気を抜いたって良かった。
制服だってちょっとくらい改造したらよかった。
「こうであるべき」と自分を思いこませていた。
だからいつも、思ったことを言える人がうらやましかったし、自己表現ができる人がうらやましかった。
そのままの自分で生きることに憧れた。でもそうはなれない私がハマったのは「演劇」で、「違う誰か」になって「思った世界」を描くことだった。
私は20年間、どうしてあのとき怒られたのかがわからないままだったんだと思う。
誰かに助けてほしかったのかもしれないし、共感してもらいたかったのかもしれない。
ずっと言えなかった「七面鳥」の話。
まだ私はクリスマスの七面鳥を作れていない。カナダに語学留学いってたときにホストファミリーに食べさせてもらったな。
だけど、いつか自分でも作ってみたい。
「できないことはないんだよ」「大丈夫だよ、できるんだよ」と、当時の自分に伝えてあげるために。