蒼色の #71 [「弁護士へ②」
私は弁護士事務所のインターホンを押した。
無表情な事務員らしき女性に、私は一室に通さる。10畳ほどのその部屋には、大きなテーブルと椅子があった。壁一面には大きな本棚があり、そこには分厚い法律の本やファイルがたくさん並んでいる。
これが法律事務所か。
その部屋に、一人座っている私は今まで感じたことのない緊張感を感じてた。自分から望んで相談に来ているのに怖かった。握った手のひらに、じんわりと汗がにじむ。
5分も経った頃、弁護士がやってきた。
白髪交じりの頭髪にスーツ、胸には弁護士バッチの年配男性の弁護士だった。
「今日はどうしましたか?」
その弁護士の問いに、私は重い口を開いた。私は今までのいきさつを順を追って話した。すると弁護士が言った。
「それは大変でしたね。さぞおつらかったことと思います」
「…はい」
「ところでね、奥さん、今聞いている限りでは、奥さんは旦那さんとその女を別れさせる行動を、実際にはなにも起こしていないように思うがどうですか?」
思いもよらない弁護士の言葉だった。
「はい、確かに別れさせるために、自分でなにか行動したということはありませんが…。安定剤も飲んでたし、ショックでそこまで考えられませんでした」
「別居して8カ月ですからね。なにか女に対して行動しないと、暗に不倫を認めていることになりますよ。それは後々不利ですから」
「でもずっと具合悪くて…相談する人もいなくて…実際にどんなことをしたらいいのかわからなくて」
必死に言い訳する私に。
「いいですか、奥さん。まず早急に女の家に乗り込んでください。そして女と直接対決してきてください。私の夫と別れろとはっきり言ってきてください」
「え?不倫相手の女に直接言うんですか?私一人で女の家に乗り込むんですか?無理です。先生、それは無理です。私、そんな勇気ありません」
「でも、このままだと奥さんも、2人の不倫を認めていたことになってしまいます。だから行ってください。そしてそれを全部録音してきてください。今電気屋に行けばICレコーダーが普通に売っています。それを隠し持っていって女との会話を録音してきてください」
「無理です。無理です。私にはとても無理です。そんなことできません。無理です」
そんな恐ろしいこと私には到底出来るわけがない。
「それは困りましたね」
「先生、どうしてもそれをしないとだめですか?」
「ダメです。遅いくらいです。今行動しないと後々不利になりますよ」
「では先生に、一緒に行っていただくことは可能でしょうか」
「私が行けば女は警戒して、なにも話さないでしょう。それでは意味がないんです。奥さんが一人で行かないと意味がないんです」
「では友達に付いてきてもらってもいいですか?」
「だめです。なぜならあなたの意思ではなく、お友達の意思で行っただけと言われると何の意味もない。あなたがあなたの意思で行ったことにならないとだめなんです。だから一人で行ってきてください。そして録音してきてください。あなた一人なら女も、思わぬ事をぽろりと話すかもしれません。私が大変なことを言っているのはわかってますが、これは奥さんとお子さんを守るためなんですよ」
だからっていきなりそんなこと、私に出来るはずがない。
今考えただけでも私は卒倒しそうなのに。
でも法律の専門家が、こんなに強く言うにはそれなりの理由があるのだろう。
「わかりました…ちょっと考えてみます」
どう考えてもそんな恐ろしいことは私にはできそうにないのだが。
私は1時間の料金5千円を支払うと、深々と頭を下げ弁護士事務所を後にした。
思いもよらない弁護士からの提案。
女の家に乗り込むなんて絶対できるはずがない。
いつ顔を合わせても鬼のような顔で私に接する夫。
口を開けば意味不明な暴言で容赦なく私の心を傷つける。
穏やかだった夫をそんな風に豹変させた女。
私のいない時間、平気で事務所に入り込み、嫌がらせの痕跡を残し無言の敵意を私に向けるその女。
自分も離婚経験者でありながら、平然と同じ痛みを私に押しつけようとする女。
他人の子供の父親を奪っても、平気で生きていられるその女。
小さな街中を、他人の夫と平気で腕を組んで歩ける女。
妻子ある男と自分の家で平気で暮らせる女。
その女は私にとってはまるで怪物。
私はその得体の知れない女が怖かった。
そんな女と私が話をしても、勝てるわけがない。絶対に勝てるわけがなかった。
しかもあの家には、女の味方である母親も息子も夫もいるのに、たった一人で乗り込むなんて。
そんな女には、一生会いたくない。
見たくもない。
関わりたくない。
では、先生が言うように会わずにこのまま負けるのか。
先生は後々不利になるって言ったじゃないか。
負けたら子供たちはどうなる?私の負けは実質子供達の負けだ。
今子供達を守れるのは、私しかいないのに。
このままなにもせず負けるのか。
それでいいのか?
子供たちの生活を、未来を守らなくていいのか?
そんなんでお前は後悔しないのか?
いや絶対に後悔する。
子供たちに、死んで詫びても詫びきれない。
でも一人で夫の不倫相手の家に乗り込んで、美加に夫と別れろと言うなんて私にできるのか。たくさんの押し問答の末、心の中の私が言った。
一人の女として、健太郎の妻として、浅見家の嫁としての自分ならそんなことは怖くて絶対できない。
けれど母としての自分ならどうだ?
あの子たちのためなら、私にできないことなど何一つないはず。
はずじゃない、ない!
そうじゃないのか麗子?
私は女の家に単身乗り込むことを決めた。
戦おう。不倫女と。
不倫女の味方には、夫がいる、母親がいる、息子がいる、義父母もいる。
今、私に味方はいない。
そして震える私のこの手にある武器は「子供たちを守りたい」という強い思い、ただそれのみなのだ。