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この家どうするの?(22)自営業・閉ざされた世界
結婚したからといって、すぐに家事能力が上がるものでもなく。やらないと、できるようにはならない。それはパートナーもおなじ。男と女の、ちがいを確認するだけ。
家は町工場
ちいさいころの思い出。
わたしは、あまりないのです。
たぶん、じぶんで都合よく蹴とばして忘れるようにしていたのかもしれません。
わたしの両親は昭和の「できちゃった結婚」です。
夫婦仲って何? 「なかよく」とは? それくらい家のなかで両親には会話がないのでした。
家はサラリーマン家庭ではなく自営業。自営なんて、カッコつけてますが、ただの町工場。
金属加工の個人商店なのでした。
労働者。下請け。薄利多売。朝から晩まで金属加工。煙と機械音……
書ききれない。あらゆる単語が貧乏の油でまみれていました。
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大阪のすみっこの準工業地帯。
父はもともと金属加工業の会社で工員をしていたようです。
そして祖母の手引きで独立・開業。祖母は女中奉公から食べ物屋(食堂?)を出したり家庭におさまらないタイプ。
経営者の祖母と従業員の息子。
よくある家族経営の町工場でした。
せまい世界
うちは下請け、子ども工場。毎朝、親の工場へ金属をもらい、加工して翌朝に納品。そのくりかえし。
仕事のあるときと、ない時で収入は安定せず父は大変でした。
だからといって営業をしたり、外へ仕事をひろげることはせず。
祖母と反対に、父は、ひととコミュニケーションがとれない。
常に受け身でした。
しごと もらえるときに もらわんと
父には、家から出ない閉じた世界が幸せだったのかもしれません。
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嫁は無給の従業員
わたしが小学生のころ1970年代の前半は、夜の8~9時まで仕事がありました。むかしの大阪万博の前後の時代。
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近所のひとも、3人ほど働きにきていました。ものごころついた時から、母も仕事場にいました。
よそのお母さんは、家で掃除したりごはん作ったりしているのに。
きれいにお化粧して買い物にいってるのに。
お母さんがいつも家にいるクラスメートがうらやましくて。
うちも家にいることはいましたが、ずっと工場にいて、ジャマになるから来るなといわれていました。
仕事が終わった「家」
家族がそろう夕食。忙しくも、一家団欒や会話がある家。
わたしは、仕事で疲れた母親に当たりちらされるのが日常でした。
自営業の嫁は無給。
母も、そんな考えの犠牲になってしまった。祖母は母には給料を出さなかったのです。
「タダ働き」いまなら、わかります。
働いても、お金はもらってない。
小学六年生のわたしには、何のことかさっぱりでした。
祖母は父に給料を渡していたのに。そして父は母に生活費を、すこししか渡してなかったようです。
父は、ひとりぐらしの経験がなくすべて母親と暮らしていたのです。生活費は、ぜんぶ祖母が払っていたのでしょう。
生きていくのに、こまごまと必要なお金が理解できない。見えるのは食費だけ。そんな父でした。
せまい世界。
子どもは産まれた家庭がすべて。
ひろい世界のお家もあるのに。
この家にいたら どうなるの。
家業以上に わたしのこころは安定しませんでした。
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「親の持ち家」の日
いつも こころに うるおいを 水分補給も わすれずに
さいごまでお読みくださり、ありがとうございます。