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雑草と、わたしの足元に生えた根っこの話

実家の庭の片隅には、5、6個のプランターが並んでいる。
暖かくなる少し前の話になるが、そこへ花を植えた。

祖母が生前、せっせと花を育てていたのを覚えている。祖母が亡くなってからは丹念に世話できる人がいなくなり、間引きされないまま成長しまくった水仙や雑草がそこらじゅうに葉を伸ばしている。
そんな庭へ新しく宿根花を植えようと母がいうので、種苗店でいくつか花の苗を購入した。中でも気に入ったのは生命力に満ちた、鮮やかなオレンジ色のラナンキュラス。青山フラワーマーケットで見たことあるけど、家でも育てられるんだと驚いた。
植え替えの前に雑草と水仙だらけのプランターをどうにかせねばならぬ、ということで晴れた日の午前中からスコップ片手に土を掘り返しまくっていた。
地面を覆い尽くさんばかりに葉を肥大化させている雑草も、根っこは蜘蛛の糸のように細くて頼りない。ただ、土を絡めとるように生えているものだから振り落とすのに難儀する。
無心になれる上、鬱蒼としていた庭の片隅がきれいになるのは爽快で、気がついたら2時間近く草をむしっていた。その間、あるプランターに何かの芽が生えているのを見つけた。雑草かと掘り起こそうとすると、にんにくの子供みたいな球根がたくさん出てきた。
なんだこりゃ?
母にも正体はわからないそうで、おそらく祖母が育てていた何かしらの球根が残ったまま増えたのだろうとのこと。球根って土に植えてたら増えるんだ。しかも、大して世話もされていないのに。
長い間放っておいたせいか、伸びる芽は弱々しかった。

おばあちゃん、ほったらかしにしてごめんね。と心の中で謝って、そのまま世話することにした。砂利のようにコロコロ出てくる謎の球根。気づいたら伸びている雑草たち。植物の生存戦略を身をもって学んでいる間、気づくと自分の足元にある根っこのことを考えていた。

この根っこというのは、記憶や経験といった意味に近いかもしれない。
たとえば、道端に咲く花を見て、これはホトケノザ、これはオオイヌノフグリ、と名前がわかること。雑草は根っこから抜かないとすぐに伸びてしまうと知っていること。
植物ばかり例にあげてしまったけど、今の暮らしにまつわる記憶や知識は、私が幼少期に祖母や母から教わったものだ。そして、祖母や母もそのまた周囲の人間から受け継いだもの。
私が今何かを知っていることと、知らないこと。感じられること、感じられないこと。その足元には周囲から与えられた記憶が根を張っている。すぐには思い出せないほど細く、引っ張ったらちぎれてしまいそうなほど弱々しい根でも。
ときには自分でも気づかないうちに芽生えて驚いたり、待てど暮らせど花が咲かずにやきもきしたりする(特に植え替えた後は)。

そっか。わたし、ひとりぼっちで生きているつもりでいたけど、ふらふらしながらもちゃんと根を張っていたのね。そしてきっとこれからも、誰にも見られない場所で根を伸ばしていくのね。
なんとなく、人生これからも悪くないな、という気持ちになった。

近所のおじさんが撫子を株分けしてくれた。
土が変わってもちゃんと根付いてくれるかな、と不安がるわたしに
「咲くのを楽しみにしてたらいいよ」と言ってくれたとき、ハッとした。
そういえば、何かを楽しみに待つ、ワクワクするという感覚を長らく忘れていた気がする。日々お世話をしたら、あとは綺麗に咲いてくれることを願って気長に待つだけ。
その撫子は今すっかり根付いて、すくすくと成長している。
まだ花はつけていないけど、そのうち咲くだろう。

わたしも日々身体のためにできることをして、
あとは心が上向く日を待つとしよう。

2022.5.3 朝

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