「いまダンスをするのは誰だ?」――樋口了一さんインタビュー
週刊エコノミスト 2023年10月3日号
シンガー・ソングライター 樋口了一
14年前、45歳でパーキンソン病と診断されて以来、闘病しながら音楽活動を続ける樋口了一さん。初めて俳優に挑戦した映画「いまダンスをするのは誰だ?」が10月7日に全国公開される。(聞き手=井上志津・ライター)
「僕はパーキンソン病という荷物を持っている」
── 10月7日公開の映画「いまダンスをするのは誰だ?」で俳優に初挑戦し、パーキンソン病にかかった主人公の男性を演じていますね。出演を依頼されたのはいつですか。
樋口 2021年の暮れです。古新(こにい)舜監督からその年の夏に主題歌を依頼され、僕は発注されるとすぐ作ってしまうので、曲を渡して一安心していたら、暮れに出演依頼の手紙が来ました。僕自身がパーキンソン病の当事者だからこそ、リアルに演じられるという面もありましたが、手紙に「清水の舞台から飛び降りる覚悟で(依頼します)」と書かれていたので、それなら僕も一緒に飛ぼうと思いました。演技はまったくやったことはなかったのですが、やったことがないという理由だけで断るのも面白くない気がしました。
── 映画の企画者は同じくパーキンソン病だった松野幹孝さんです。2022年夏の撮影を前にその年の春、脳出血のため67歳で亡くなりました。
樋口 松野さんは証券マンだった12年にパーキンソン病と診断され、病気の実情が知られていないために苦しんだ体験を基に原案を作成しました。この病気のことを知ってもらい、孤立する人を救いたいという強い思いがあったと思います。僕が松野さんにお会いしたのは一度だけですが、穏やかな方でしたね。
急逝されましたが、僕はこの病気の人が亡くなると、こう感じるんです。僕らはパーキンソン病という荷物を持って歩いているので、その荷物を下ろすことができたのは悲しいことじゃなくて喜ばしいこととも言えるって。僕は、死は命の終わりではなく、ただそのエピソードが終わるだけと思っています。
── 初めての撮影はどうでしたか。
樋口 約10日間、朝から晩まで撮影が続いて過酷でした。撮影前は覚えたセリフをただ言えばいいと考えていたので、実際に始まると焦りましたね。普段って、記憶したセリフをしゃべっているわけではないですから、どうしたら自然に言えるのだろうと……。出来上がった映画を見ると、おどおどしながら演技をしていますが、まあ、それも病気の雰囲気を出している感じもするし、監督もこれを狙っていたのかなと思うようにしています。
── 撮影中、体調はどのように整えていましたか。
樋口 普段は熊本県に住んでいるので、薬を多めに持ってきて、配分とタイミングを自分で調節していました。パーキンソン病は薬の効果がある状態(オン)と効果が見られない状態(オフ)があるので、オフになる前に次の薬を飲まないと体が固まってしまうんです。でも、どうしても間に合わなかったシーンもあって、いくつかのシーンはオフ状態のままやっています。ものすごく猫背のまま歩いているシーンなどはそうです。
── 映画ではダンスも披露しましたね。
樋口 ダンスは小学生の時にフォークダンスで「オクラホマミキサー」を踊って以来。振り付けがあって、ずいぶん練習したんですよ。でも、短期間の練習でかっこよく踊れるようになったら不自然ですから、みっともなくても一生懸命なところを見てほしいですね。
「パソコンの打ちづらさ」から
── 調子はいつごろから悪かったのですか。
樋口 42歳の時、パソコンを右手だけ打ちづらくなったのが始まりでした。整体や整形外科、かみ合わせが悪いのかと歯医者にも行きましたが、良くなりませんでした。そのうち右足が前に出なくなったり、ギターが弾きにくくなったり、声が出づらくなったり……。病院などを14、15カ所めぐった結果、09年にようやくパーキンソン病と診断されました。
原因が分からない間は不安だったので、正体を現してくれたという意味では良かったのです。ただ、パーキンソン病は難病で、だんだん進行していくこともネットで調べて知っていたので、このままいろいろなことができなくなっていくのかと絶望もしました。
「水曜どうでしょう」 にも楽曲
── パーキンソン病と診断されて、家族の反応はどうでしたか。
樋口 当時はまだ子どもが5歳と3歳でしたが、妻は僕を病人という感じではなく、まったく普通に接してくれたので、そこは逆にプレッシャーを感じずにいられました。
── 12年に病気について公表しました。
樋口 最初は伏せていたんです。「手紙」は外国の詞が元なので、僕のプライベートとは関係ないのですが、僕のことだと矮小(わいしょう)化されたりしたくないと考えて、公表しませんでした。でも、だんだんばれてくる。ファンの人からも「どうしてギターを弾かなくなったの」とか「声があまり出ていないね」って。それで、12年にNHKでドキュメンタリー番組の収録があったのを機に公表しました。
診断されてすぐのころ、僕のデビュー時(1993年)のプロデューサーだけは「公表すべきだと思う」と言ったんです。「歌を作る仕事をしているんだから、表現するという役割がある。公表することで前向きな出会いもきっとある」と。彼のその言葉が記憶にずっと残っていました。とはいえ、それからしばらくそのままだったんですけどね。
── 公表して、どんな変化がありましたか。
樋口 人間、隠しごとをするとエネルギーを使いますよね。それがなくなって楽になったのと、プロデューサーの彼が言ったようにいろいろな出会いがありました。ファンの人たちも割とすんなり受け入れてくれました。僕が気にしていたのは、パーキンソン病のミュージシャンというレッテルを貼られることが、音楽活動にどう影響するのかということでしたが、自分が作る曲で身近にあることを表現していると次第に病気がテーマの曲も増えてきて、今は抵抗感がなくなりました。
「8月発売の新アルバムは、病気を抱えた人たちの詞がメイン。説得力があります」
誰もが親しみやすいメロディーと透き通った声が魅力の樋口さんの作品。立教大学在学中から音楽を始め、中退後に本格化。93年にシングル「いまでも」でデビューし、北海道テレビ放送の人気バラエティー番組「水曜どうでしょう」テーマソングとして「1/6の夢旅人2002」を制作。SMAPや石川さゆりさんなどにも楽曲を提供してきた。そして、デビュー30周年となった今年8月、新アルバム「いまダンスをするのは誰だ?」を発売した。
「ブレーキとアクセルが同時」
── 新アルバムには映画の主題歌など8曲が収録されていますね。
樋口 今回は僕が病気を公表したことによって出会った人や、病気というトラブルを抱えた人たちの詞がメインで、僕が詞を書いたのは1曲だけなのが特徴です。どん底を味わった人が書く希望の歌は説得力があります。それがカラーになっていると思います。
── 11年に拠点を東京から故郷の熊本に移したのはなぜですか。
樋口 一番の理由は熊本で、母親が父の介護をするのが限界になったことでした。僕の仕事は帰郷してもできるので、移住しました。
── 普段はどんな生活ですか。
樋口 車で20分ほどのところにある仕事場に朝早くから行って、夜中まで曲を作ったり書き物をしたりしています。シンガー・ソングライターの村上ゆきさんとのユニット「エンドレスライス」としてのライブや、呼ばれた場所へ行って「手紙」を無償で(歌って)届ける「ポストマンライブ」も続けています。
── 現在の体調はどうですか。
樋口 若い時期に発症したので、進行は割と緩やかに抑えられているのは間違いないと思います。通院は5週間に1回ぐらい。パーキンソン病は一人ひとり症状が違いますが、僕の場合はこわばりがメインで、一番つらいのは腰が痛くなることです。あとは全身にサイドブレーキがかかったような感じになって、それでも動かないといけない時は、サイドブレーキをかけながらフルアクセルを踏むような感じになるのがつらいですね。この病気は突然固まったり、動けたりするので、ふざけているのかと思う人もいるかもしれませんが、この映画をきっかけに病気を理解してくれればうれしいです。
── これからの人生をどう過ごしていこうと考えていますか。
樋口 昔は、人は老い先短くなると絶望的になるのかなと想像していましたが、今は僕はパーキンソン病という荷物を持って歩いているという認識なので、荷物を下ろせる時がいつ来るのか、という気持ちです。もし今が20代だったら、まだ先が長いなと思いますが、秒読みする楽しさがあるような、救いになるような気がしています。そういう心持ちになったのは、つい最近なんですけどね。あともう少しだから、一生懸命やりたいです。
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20231003/se1/00m/020/006000c