母に見てほしかったテレビ番組
認知症にまつわるNHKのドキュメンタリーを二つ、続けて見た。
香川県の三豊市立西香川病院に、認知症になった人が新しく認知症と診断された人の悩みを聞く相談室があり、そこを訪れる人々の姿を記録した「認知症の先輩が教えてくれたこと」。二つ目は認知症になった精神科医、長谷川和夫さんの暮らしぶりを描いた「認知症の第一人者が認知症になった」だ。
「認知症の先輩が教えてくれたこと」に出てくる相談員は、元商工団体職員で七十八歳の渡邊康平さん。六年前に脳血管性認知症と診断されたときは食事がのどを通らなくなって二十キロも体重が減り、ショックから立ち直るのに二年かかったという。
相談室に、アルツハイマー型認知症と診断された元市役所職員の高橋通夫さんと妻の宗代さんがやって来る。子ども好きの高橋さんは定年後、学童クラブのスタッフを務めていたが、発症で辞めざるをえなくなり、「がくんと落ち込んで、何とも言えない気持ちだった」と話す。渡邊さんは「認知症をストップできるような薬はまだできてない。だけど、それでシュンとしたって始まらん。楽しまんだら何のために生きているか分からんやないか」と高橋さんを励ます。
高橋さんは西香川病院の院長から、相談員の補佐役を頼まれ、少し前向きになる。進行が早く、どんどん忘れてしまうので、高橋さんは日記を付ける。
「認知症になってよかったこと。妻のやさしさにふれたこと。友人がふえたこと。人のいたみがわかったこと。いっぱいあるものだ」
日記に書いたことを、高橋さんは覚えていない。「こんなこと書いていると思わなかった」と話す宗代さんに、高橋さんは「俺も思わんかったな。ふふ」と笑う。
妻に支えられ、少しずつ平穏を取り戻す高橋さんと対照的に、認知症になった妻を受け入れられない夫も仮名で登場する。田中博さん、洋子さんという七十代の夫婦は結婚して五十年。博さんが単身赴任をしていた二十年以上もの間、洋子さんは一人で家を守り、家事と子育てを行ってきた。
「昔は花を絶やさず、小さい土地だけど植えたりしよった。それもおっくうになったみたい。ワシより若いのに、なんでこんな病気になったのだろう」
博さんは家の中でホウキやまな板を探し回る洋子さんを冷たい目で眺める。
「迷惑をかけるようなこと、私はしてないよ」と洋子さんは反発する。おそらく長い間、夫に従順だっただろう洋子さんは、ディレクターに向かって「難しかろう? 細かい。本当に疲れるわ、あの人には」と博さんの悪口を言う。
博さんは相談室を訪れ、渡邊さんの妻、昌子さんに「こっちもイライラしますから、ガーッと言うときもあるんですよ。そしたらもう……」と訴える。昌子さんは「大変でしょう。だけど、どなったり怒ったりしたら、もっと進行するかも分からんよ」と注意する。別の日にも「人間として大事に尊重してあげてほしい。心とか感情は絶対最後まで残ってる。認知症じゃない方よりも認知症の人のほうが敏感で感受性が強いと思う」と力説する。が、博さんは首をひねる。
「パーフェクトな奥さんだったけんな、博さんはその落差がなかなか受け入れられんのよ」と渡邊さんに報告する昌子さん。渡邊さんは「受け入れられないのは当事者も一緒」と憤慨する。別の家族にも言う。
「『お前、なんでこんな分からんのか』と言うのはダメです。それを言われたらな、ものすごく心が痛むんや。つらくなるんや」
私は昨年、他界した母に、この番組を見てほしかったと思った。
私の父は六十五歳だった二〇〇〇年にパーキンソン病と診断された。この病特有のすくみ足や手の震えといった症状はあったものの、薬で進行を抑えながら、編集者の仕事を続けていた。
パーキンソン病は認知症を併発しやすいとは聞いていたが、異変は二〇〇八年ごろに始まった。最初はパソコンの使い方が分からなくなり、仕事のデータを消してしまうことが重なったため、「俺、認知症かな?」と母に言っていたという。
同じころ、幻覚が出てきた。二十年前に死んだ母親が玄関の外に立っていたり、自分の隣に知らない人が座っていたり、「志津(私)が来ている」と言ったりするようになった。「女の人が小さい子を二人連れて歌をうたっていたから、寒いから家の中にお入りなさいと言ってあげた」とか、「女の人と小さい子二人がそこに座っているから、ヨーグルトをあげなさい」と言ったりした。
しかし、母は父が認知症だとは認めなかった。認知症は、以前は「痴呆」と呼ばれたものの、この語感が差別や偏見を呼びがちだったので、二〇〇四年に呼び名が改められたというが、母も偏見を持っていた。だから、自分の夫が「痴呆」になることを決して許さず、幻覚はパーキンソン病の薬の副作用だと言い張った。母の頭の中では、パーキンソン病のほうが認知症よりもなぜか位が高かったようだ。このため、父がおかしなことを言うたび、二人暮らしの家の中で母は「そんな人はいないでしょ!」とか「変なこと言わないで!」とか「しっかりしなさい!」と父をどなったり怒ったりしたのである。
当時、私は実家から電車で四十分ほどの家に夫と娘と住んでいた。小学生になった娘を連れて週末に実家を訪れるたび、家の中はどんよりした空気が流れていたのを覚えている。私は「頭ごなしに否定したり怒ったりすると、本人は不安になって認知症が悪化するらしいよ」と、母に「認知症マニュアル」のコピーをFAXしたりしたが、母は「パパをバカにするな!」と激高した。父が変なことを言っても私が「そうだね」などと話を合わせるので、「志津はパパをこっちに引き戻さない」とも怒っていた。私はいつも、バカにしているのは母のほうじゃないかと苦々しく思っていた。
とにかく、母がどなったり怒ったりしたので、父の認知症は進んだと思う。番組の中では、田中博さんはその後、妻の気持ちを思いやるようになり、洋子さんにも笑顔が戻った。その様子を母に見させて、少し反省してもらいたかったと思った。
もう一つの「認知症の第一人者が認知症になった」も見てもらいたかった。こちらは精神科医の長谷川和夫さんが二〇一七年、八十八歳のときに嗜銀顆粒性認知症と診断され、それを公表してからの日々が記録されている。長谷川さんは認知症を専門とし、認知症患者の尊厳を守ろうと、名称を痴呆から認知症に変えるよう提唱した人たちの一人。具体的な診断基準がなかった時代、記憶力などをテストする「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発し、日本で初めて認知症の早期診断を可能にした人でもある。
長谷川さんは認知症の人の心に寄り添って診察をしてきたが、自身が認知症になってみると、想像以上の不安に襲われた。
「自分が認知症になってみたら、こんなに大変だと思わなかった」
長谷川さんは日帰りで介護が受けられるデイサービスに行くことになる。妻は腰を痛めており、妻を休ませるのが目的だった。長谷川さんは約四十年前にデイサービスの必要性も提唱し、実践した。家族の負担を軽減し、認知症患者の精神機能を活発化させ、利用者が一緒に楽しめる場所の重要性を訴えてきた。
でも、デイサービスで利用者が行うゲームに参加した長谷川さんは、憮然とした表情でつまらなそうにしていた。長谷川さんはディレクターに言う。
「医者のときは『デイサービスに行ったらどうですか?』、そういうことしか言えなかったよね。介護している家族の負担を軽くするためにいいだろうくらいの考えしか持っていなかった。でも、ひとりぼっちなんだ。おれ、あそこに行っても」
長谷川さんがデイサービスに通うのをやめると言うので、娘は呆れて、「でもデイサービスは自分が始めたことでしょ? でもやめちゃうの? 行ってもつまんないの?」と問う。長谷川さんは「そう」と答える。
私は父が入った病院で受けた医師や看護師たちとの面談の場面を思い出す。父の病状は二〇一一年に転んで大腿骨を骨折し、手術と入院を余儀なくされたのを機に、一気に悪化した。一度はリハビリをして歩けるようになったが、再び転倒して入った病院で肺炎を起こし、その後は二度と歩けなかった。
面談で、医師は母に「ご主人はパーキンソン病が進行し、合併として認知症と自律神経失調症があるので、今後、在宅介護は難しいです。老人ホームか療養型病院を探すことをお勧めします」と告げた。看護師やリハビリ療法士も口々に「ご本人に負担の少ない介護を受けたほうがいいので、快適に過ごせるのは施設が一番だと思います」と言った。「そこに奥様が見舞いに通えば、楽しく過ごせます」
母は二〇〇三年に発症した卵管がんが再発して手術をしたり、リンパ節郭清による副作用で蜂窩織炎という病気を繰り返しては入院したりしていたので、実際のところ、自分が父を在宅介護する考えはなかった。一人娘の私も共働きで、在宅介護は無理だった。しかし、母は医師たちの提案を全面的に断った。
「体的にはそうかもしれませんけど、うちの夫は精神はちゃんとしているんです。だから施設には行きません。家に連れて帰ります」
「施設ならご主人はお散歩も行けるし、施設には楽しいイベントもありますよ。お花見とか」と言った看護師には、「彼はそんなキャラじゃないんです。年寄りといたって楽しくないんです」と猛反論した。
その場に集まっている全員、悪意があるわけではなく、みな策を講じているだけなのに、「彼はそんなキャラじゃない」などと言ってはいちいち却下する母に、私はなんて自分勝手なのだろうと腹を立てていた。じゃあ、どうすればいいというのか。自分は現実離れした案しか出さないじゃないか。結局、直後に母が蜂窩織炎で入院したので、私が老人ホームを探し、父に入所してもらった。
その母がもしも「認知症の第一人者が認知症になった」を見て、長谷川さんが、自分がかつて提唱したデイサービスに「行きたくない」と言ったことを知ったら、母はそれ見たことかと、どんなに得意げな顔をしたことだろう。
「ほらね。つまんないのよ。みんな我慢しているだけなのよ。行きたくないのよ。これが本当の気持ちなのよ」
何が良くて、何が悪かったのか。
父も母もいなくて、もう聞けない。生きていれば、この番組の感想を言い合えたのに……。天国があるなら、いつかみんなで笑って振り返ることができるだろうか。
(黒の会手帖15号 2022・1)
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