矢野静明 文章

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第五章「固有性を離れる・線」⏐ 矢野静明

絵画以前ということなのかもしれませんが、人が一本の線を引くということを、これまで自分の体験に基づいて考えてきました。あわせて、自分の体験について、シモーヌ・ヴェイユの「人格と聖なるもの」に触発されて考えてきた部分もあります。ヴェイユから受け取った問題とは、固有性から離れるというものです。ヴェイユは、哲学者でもあり、社会運動家、教師でもあるのですが、もっとも本質的な意味で宗教家であったという、他にあまり例を見ない存在について考えるのはまた別の機会にしたいと思います。ヴェイユ自身

    • 第四章「背後にあるもの」 ⏐ 矢野静明

      フレデリック・グロはM・フーコー講義録の編者としても知られていますが、彼に『創造と狂気』という本があります。本文の(注)に、次のような話が書かれています。前後の経緯は省略します。 この患者にとって、われわれが普通考えている「正常と異常」は反転しているわけです。患者本人の言葉に従うなら、「病的な明晰さ」から、「通常のばか」に戻ることが、病気からの快復を意味しています。明晰な時は、本来の自己を喪失しているのです。そして本来の自己に戻ると、ばかの状態になるということです。本人がそ

      • 第一章「伝達衝動をわずかしかもたない」⏐矢野静明

        基本的に絵画は「描く」と「見る」の二つで成り立っています。もちろん画家は自分の作品を見ますが、そのもう一つ先には、自分以外の誰かが作品を見るということが起きます。こちら岸に、描いている自分以外は誰もいない絵画の発生点があり、向こう岸には、作者ではない誰かが作品を見る到達点がある。この両岸は普通にはひとつながりのものとして考えられていますが、本来はまったく別の行為です。なので、発生点と到達点の二つを分離してここでは考えてみようと思います。絵画制作という個人的な作業において、その

        • 第三章「等価性の次元と『自己触発』」 ⏐ 矢野静明

          以前、ある人に「あなたは自分に起きた体験をあまりに信じすぎているのではないか」と問われたことがあります。珍しい質問でもないでしょうが、なるほど、色彩であれ、線描であれ、絵画に関してはほとんど自分の体験、それも子ども時代を含め、きわめて小さな体験から絵画に対する考えを作ってきましたし、それを文章にもしています。研究者が膨大な客観的資料をもとに持論を述べるのとは違って、小さな、時にはただ一度の小さな体験をもとにして絵画を語ってきたのですが、こういうやり方は、幼い子供が典型ですが、

          第二章「誰が線を引くのか」|矢野静明

          1. トーク(これは2019年10月4日~14日まで、東京西荻窪、ギャラリー・フェイス・トゥ・フェイスで開かれた個展『リントの森』に際して行ったギャラリー・トークに加筆修正したものです。) 参考作品画像 (a)今回のタイトルは「誰が線を引くのか」となっています。これはみなさんへの問いかけではなく、本当は自分自身への問いかけから始まったものです。自分が線を引いているのですから、普通なら「私が引いている」でいいはずですが、引いている本人が「誰が引いているのか」と問うのですから、

          第二章「誰が線を引くのか」|矢野静明