鼠くん、私は完璧に失望していたのかもしれない。
正直に言おう。
私は、この自粛期間中に、一度もこの場所に来ることが出来なかった。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」ーーー『風の歌を聴け』村上春樹著の冒頭
完璧ですらない文章の「ヒトツ」も、冒頭もタイトルも何も書けない自分に、日に日に失望していた。書き始めすらないから、句読点なんてとんでもなく遠かった。これは、「ライターズブロック」なんていうプロの人の話ではなく、一般庶民として、書いてみたいけれど書けない、そんな初心者のお話で。
失望したのは、とりわけこのnoteと自分の向き合い、しいては文章を書くということと自分の関係性だった。才能なんて言えるほど書いていないにも関わらず、すらすらとリズムのいい文章を書ける人を尊敬しながら、同時に失望していた。
今日の一日の中ですら、「よし、素直に30分だけ」と三回以上は思ったかもしれない。6月に入る直前にも思っていた。それ以前にも、事あるごとに「あっ、これ面白いからこんなこと書いてみたい」と空想し、シャボン玉のように、虹のようにあっという間に消えて、忘れていくの繰り返しだった。日々出会うユニークな出来事や考えに対し、noteを書くスピード(熱量)が追いつかない自分を正当化しようとしていたこともあったかもしれない。反面、自分のノートや手帳にはこまめに様々なことを日々日々書き留めていた。
気がついたのは、文章を書く、ということよりも、「公にする」ことに対しての考え方に問題があるのではないかと思い始めた。自分では、見切り発車をするときも多々あるし、どちらかというと飛び込んでみよう、やってみようという勇気はある方だと思っていたが、実は何かを公にすることに対しては特別「弱い」というのか、、、「完璧主義」なのではないか。とても意外だけれど、勇気があるのは「自分ひとりごと」に対してだけだったのかもしれない。
一方では、自分をわずかばかり説得できる収穫もあった。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というように、noteに手を出さなかった分、この自粛中に英語の勉強の継続と読書にたっぷり時間をかけることが出来たということだ。手元にあるのは、自分の意思しかない。その意思しか頼れないし、意思にしか裏切られることはない、そんな状況が一人暮らしの自粛だった。その中で、私にとってnoteを書くことと並行して、それらを達成することは出来なかったように思う。言い訳かもしれないけれど、仕事があり、人や家族と接しているときの方が、「立ち止まりたい」気持ちが溢れ、書きたくなるのかもしれないな、私の場合。毎日一文字でも書こうと継続されている方を尊敬していたが、私にはこれだけ時間があっても向かないことなんだということを知ることができた。
久しぶりにnoteを開いた途端、「6ヶ月おめでとうございます」と出てきた。
嬉しい気持ちよりも間違いなくショックの方が大きかった。笑
しかし、そんな気持ちをここまで「公に」書いてしまえば、少し肩の力が抜けた気がする。
ほら、やっぱりnoteに対して考えすぎだったのかもしれない。
気張るより、気まぐれにいこうと思った。
静水庭🌿
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