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(4)我具足(Atta-sampadā)

ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具、4つ目の「我具足」です。

我具足?たぶん聞いたことはあったのだとは思いますが、あまりきちんと学んでませんでした。

(4) 我具足(Atta-sampada)

自分を完全にすること、あるいは自分を十分に開発することです。
この我具足については少し英語を使わせてください。丁度これと一致する英語の言葉があります。Self-actualization (自己実現)です。現在の心理学では、この原理はそれなりに重要です。Self-actualization は、正にこの我具足のことです。
   私たちは菩提の信の原理によって、人間の潜在能力を信じています。ここにきて、自己を完全に創造することはこの潜在能力を目一杯に開発することです。
   この我具足は私たちがこれまで見過ごしていた法の言葉です。この原理を見過ごしていたことは不思議です。ブッダは他の項目と一緒に合わせて七項目を一組とされて、このように並べられています。しかしこの一組の法は見過ごされて、関心を持って話す人はいませんでした。どれかの項がたまたまどこか他のところに出てきて、知っている人はいましたが、この一組の項は馴染みのない法の原理でした。ここで復習しておきましょう。
   ブッダは道の前兆の第四項目の我具足について、自己を完全に創造すること、あるいは自己の潜在能力を目一杯に開発することだと言われています。凡夫は自分を開発して聖者になる、すでに聖者である者はさらに高く開発する。もし、預流者であれば一來者と不還者と順を追って阿羅漢として成就するまで前進する。無学として完全に解脱して自由になって、学習の過程は終わる。
   しかし、このことはもう多くを説明しません。というのも一般の意味については、既に説明されているからです。ただ、仏教はこれを学習の前兆の第四項目として説明していることをお見せしただけです。違っているのは完全にというのはどのようなことか、またどのようにして完全にするのかということだけです。
ポー・オー・パユットー 「仏法の思考と実践」

Self-actualization 自己実現

 ほおお、自己実現。この言葉でしたら、たぶん知っています。マズローの欲求ピラミッドの一番上にある欲求だったような。
以前、マズロー研究会だっけか?という人々を発見して、すごく面白かったのですが。。自己実現の上の自己超越だったっけか?、、それは置いておいて。。

人は何のために生きているのか?というと、たぶん世俗的には、多くの人はこの自己実現を目指して生きるんじゃないかと思われます。
世俗的な私の見解です。
私自身の見方は今は2つあって、世俗としての見方と、仏法の見方と、けっこう二刀流で(大谷さんか)生きているところがあるので、世俗的には、と、このように記事に書くことが多いです。

世の中を見てみますと、、
めっちゃ活躍している人々のメンタルの部分を見てみますと、自己実現していそうな人々は、メンタルの部分で、やはり達観しているところがあったりする人々も見受けられます。もちろんそういう人ばかりではないですが。
我具足。という視点から見ると、自己実現欲求を満たしている人々は、この我具足を備えている人がいる気がするんです。

自己の開発を、し続ける

人、こと、かな。結果に満足することなく、過程を大事にしている、とも言えるかもしれませんね。
この辺が、我具足、っぽいなあと感じましたね。
私がそう思うだけかもですが。

日本では、道、が沢山ありますね。華道、武道(弓道、合気道、剣道、柔道などなど含む)、書道、茶道、、あとなんだっけ?よく知りませんが😂(順不同)
まあ色んな仕事がありますが、けっこう日本人はその道の人、を目指しやすいと言いますか、目指しているところがあったりする気がしますね。
自分の仕事を極めたい思い。
これって、なんだか自己実現っぽいなあと思ったりしますね。

でも、世俗のことで、もう私はこの仕事を極めました。ということは完全に言えるでしょうか?
どこまでいっても、完全にはなり得ないような気がしますね。
仕事といっても、結局は極めるのは精神、心になっちゃう気がします。
完璧、とか、完全さ、のようなものが物質的にはないと思われるからです。

無学になるまで学ぶ

完璧になる道が仏道なんです。
と、私は思っていますし、私はそうお聞きしています。

もう学び終わりました。と、自分でわかるそうです。

でもこれ、どう思いますか?

たぶん凡夫な私は、わかるだろうか?わかったと勘違いするんじゃないだろうか?
なんて思っちゃいますね。
一昨年にちょっと修行を一所懸命にやった時に、すごく心が軽くなった経験があったんです。
あの時は勘違いしましたね。
自分が何者かになった気がしましたね。
何者でもなかったですね😂

でもまたそのような経験が後に役に立っていきます。そういうこともありますね。

私の正直な気持ちとしては、仏道を歩んでいると思っている人達と、共に学べるといいなと思うんです。
そして、仏道を歩んでいない方々とも、仲良く生きていけたらいいなと思うのです。
お互いに色んな特徴があったりしますから、補い合えばいいよね、と思うんです。
私は私に足らないところを教えてもらいたいですし、気軽にこうしたらいいよ、と思うことをお互いにスッと言い合える関係性を作れたらいいな〜嬉しいな〜と思っています。
まあでも相手があることは何でもそうですけど、難しいですよね😆相思相愛はなかなかです🤭😂たぶんそうなるには努力がいりますし、相手の状況にもよりますしね。
慢、という厄介なものが邪魔をしたりします。慢、は、比べる心ですね。私と人を比べてしまう心です。これが発動しちゃうと仲良くなれなかったり、学べなかったりします。相手の慢に反応したり、私自身の慢が生じた時、気づくことができればいいなと思います。

まあでも、慢は生じるものですから、生じても気づいても気づけなくても、とにかく学ぶこと。
いつも何からでも誰からでも学ぶ姿勢でいることが大事だと思います。

無学になるなんて、到底想像つきません。学べば学ぶほどに自分がよくわかっていなかった、ということが知らされるばかりです。

いかに自分がさも何でも知っているかのような万能感を持って今まで生きてきたかということが知らされていると感じています。そして今もそれは継続中です。

自己の開発

さてさて、自己の開発。

パユットー師はよくこの開発という言葉を使われていますね〜。
英語だとdevelopment となっています。
(最近、英語を勉強中です)
パユットー師の仏教辞典からものせておきます。

 4. 我具足(Atta-sampadā:perfection of oneself; accomplishment in self that has been well trained; dedicating oneself to training for the realization of one's full human potential; self-actualization) : 自己修習を具えること。身、戒、心、慧のすべての面において(自ら修習(Bhavitatta)して)完全に自己の美徳を具えること。
ポー・オー・パユットー 仏教辞典《仏法篇》

自己修習を具えること

たったこれだけの言葉ですが、難しいっちゃ難しいことなんですよね😂

身、戒、心、慧の、すべての面において

これが難しんでしょうね🤣

一個一個、どれも難しいのですが、慧が備わっていくことが一番難しそうです。
身、戒、心、と訓練していきつつ、慧も段々と、じわじわって長老は仰ってましたけど、開発されていくのでしょうと思います。

自ら修習して

完全に自己の美徳を具えること

まあ、美徳を具えるという結果を目指すは目指すのかもしれないのですが、あくまでもそこにあると思われるものも、過程、プロセスですから、、
そうこのプロセス!
法という言葉の英単語を調べたら、processだったんですね。なんか驚いちゃいました。英語話せる方々は普通なのかもしれないですね〜私にとっては毎日が本当に発見の日々です😊

でもパユットー師の仏教辞典では、
法は、the Doctrine
律は、the Discipline
となっていました。
仏教で法、ダンマとかダルマとか言われるものって、色んな意味で使われるので、それぞれの状況によって、意味が変わってくるのだと思います。

[35] 教語 (Pāvacana 2: fundamental text; fundamental teaching):主な教語、基本的な仏語、主要な教えの言葉。
1. 法(Dhamma: the Doctrine):知るべき真実の原理を説き、行うべき善の原理の指導する言葉。
2. 律(Vinaya: the Discipline): 等しく秩序ある行動を行うように監督する原理として置かれた規定。
[75] 三蔵を参照のこと。
ポー・オー・パユットー 仏教辞典《仏法篇》

私たちがやることは修習。これだけなんですよね、本当に。

[37] 四修習(Bhāvanā 4: growth; cultivation; training; development):増進すること、生じさせること。訓練、開発。
1. 身修習(Kāya-bhāvanā:physical development):身体を鍛えること。五根をもって外界のすべてに関して良く接触することを知り、これらのことに徳をもって悪が生ぜず、善が生じ、不善が衰退するように行動すること。身体を
通じて外部環境との関係を開発すること。
2. 戒修習(Sila -bhāvanā: moral development):戒を増進する。品行を良くし、規律正しい生活をする。他人を苦しめたり、迷惑を掛けたりしない。他人と仲良く、助け合う。
3. 心修習(Citta -bhāvanā:cultivation of the heart, emotional development):心を増進し、発展させる。慈悲、志欲、精進、忍耐、定、清々しさ、楽しさ、清らかさなど多くの美徳により、心の修養をして不動なものにして増進させる。
4. 慧修習 (Paññā-bhāvanā : cultivation of wisdom; intellectual development;
withdom development):慧を増進させる。慧を修習して、一切のことを如実に知り理解し、世間と生きることの実相を覚知して、心を自由にし、己の煩悩をなくし苦から脱し、生じる問題を意で解決する。
三蔵ではこの四修習(Bāvitta 4) を人の徳の形で説いている。身修習 (Bāvitta-kāya)、戒修習(Bāvitta-sīla)、心修習 (Bāvitta-citta)、慧修習(Bāvitta-paññā)
(身、戒、心、慧を増進した者)の四修習のすべての美徳を備えたものは当然阿羅漢(Arahanta)である。
(第19巻増支部五集146-9頁)
ポー・オー・パユットー 仏教辞典《仏法篇》

どこまでいっても、結果が出たと思っても、何が起こっても、修習するしかないのだと思います。
結果に執着しちゃうと、それがまた壁になっちゃうんですよね。
執着してるな、と確認しつつ、また修習を続けていく。
いや〜まさに忍耐でしかないのかもしれません😂
仏道を歩むとついてくるものは忍耐力とかアチャンチャーが言ってたような??グナラタラ長老だったかな?😂

できれば楽しみつつ、まあ嫌になることだってありますしね。そんな心も観察しつつ。

みんな精一杯生きてますから。私も精一杯生きてますから。ここは慈悲で。

執着している私の姿を発見するんですね。

執着してるよ〜って😊

やった!執着みっけ!みたいな😂

執着みっけゲーム🎮

またこんな風に書いちゃうと嫌われちゃうんだろうな😂
と思いつつ書いてしまう私の業📝

本来であれば、面白くもなんともない世界なんですよね、きっと。それをいかに楽しみつつ、そして自分ができることを、目の前のことをただやっていく。

人生辛い時あると思います。しんどい時もあると思います。もしかしたら絶望感にかられることもあるかもしれませんが、、無常です。変わらないものはありませんね🙏😊

しっかり勇気を持って、ダメだと思ってしまっている自分自身を観ていきましょう。

と、改めて毎度毎度思いますね。

あ、パーリ語😆
今日はAtta-sampadā
atta 我、自 =attan

だんだんパーリ語のコーナーが短くなっている。。まあでも今回はもうお腹いっぱいな感じなのでこの辺で。。😂

感謝🙏😊

皆様が安穏でお幸せでありますように
智慧が現れますように

グナラタラ長老の言葉を最後に
What is meditation?
Meditation is completely 100% 
personal lonly practice.
と、お聞きしました。(リスニングが合ってるといいな〜要チェックですよ〜😂🙏)

生きとし生けるものが幸せでありますように

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