(4)我具足(Atta-sampadā)
ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具、4つ目の「我具足」です。
我具足?たぶん聞いたことはあったのだとは思いますが、あまりきちんと学んでませんでした。
Self-actualization 自己実現
ほおお、自己実現。この言葉でしたら、たぶん知っています。マズローの欲求ピラミッドの一番上にある欲求だったような。
以前、マズロー研究会だっけか?という人々を発見して、すごく面白かったのですが。。自己実現の上の自己超越だったっけか?、、それは置いておいて。。
人は何のために生きているのか?というと、たぶん世俗的には、多くの人はこの自己実現を目指して生きるんじゃないかと思われます。
世俗的な私の見解です。
私自身の見方は今は2つあって、世俗としての見方と、仏法の見方と、けっこう二刀流で(大谷さんか)生きているところがあるので、世俗的には、と、このように記事に書くことが多いです。
世の中を見てみますと、、
めっちゃ活躍している人々のメンタルの部分を見てみますと、自己実現していそうな人々は、メンタルの部分で、やはり達観しているところがあったりする人々も見受けられます。もちろんそういう人ばかりではないですが。
我具足。という視点から見ると、自己実現欲求を満たしている人々は、この我具足を備えている人がいる気がするんです。
自己の開発を、し続ける
人、こと、かな。結果に満足することなく、過程を大事にしている、とも言えるかもしれませんね。
この辺が、我具足、っぽいなあと感じましたね。
私がそう思うだけかもですが。
日本では、道、が沢山ありますね。華道、武道(弓道、合気道、剣道、柔道などなど含む)、書道、茶道、、あとなんだっけ?よく知りませんが😂(順不同)
まあ色んな仕事がありますが、けっこう日本人はその道の人、を目指しやすいと言いますか、目指しているところがあったりする気がしますね。
自分の仕事を極めたい思い。
これって、なんだか自己実現っぽいなあと思ったりしますね。
でも、世俗のことで、もう私はこの仕事を極めました。ということは完全に言えるでしょうか?
どこまでいっても、完全にはなり得ないような気がしますね。
仕事といっても、結局は極めるのは精神、心になっちゃう気がします。
完璧、とか、完全さ、のようなものが物質的にはないと思われるからです。
無学になるまで学ぶ
完璧になる道が仏道なんです。
と、私は思っていますし、私はそうお聞きしています。
もう学び終わりました。と、自分でわかるそうです。
でもこれ、どう思いますか?
たぶん凡夫な私は、わかるだろうか?わかったと勘違いするんじゃないだろうか?
なんて思っちゃいますね。
一昨年にちょっと修行を一所懸命にやった時に、すごく心が軽くなった経験があったんです。
あの時は勘違いしましたね。
自分が何者かになった気がしましたね。
何者でもなかったですね😂
でもまたそのような経験が後に役に立っていきます。そういうこともありますね。
私の正直な気持ちとしては、仏道を歩んでいると思っている人達と、共に学べるといいなと思うんです。
そして、仏道を歩んでいない方々とも、仲良く生きていけたらいいなと思うのです。
お互いに色んな特徴があったりしますから、補い合えばいいよね、と思うんです。
私は私に足らないところを教えてもらいたいですし、気軽にこうしたらいいよ、と思うことをお互いにスッと言い合える関係性を作れたらいいな〜嬉しいな〜と思っています。
まあでも相手があることは何でもそうですけど、難しいですよね😆相思相愛はなかなかです🤭😂たぶんそうなるには努力がいりますし、相手の状況にもよりますしね。
慢、という厄介なものが邪魔をしたりします。慢、は、比べる心ですね。私と人を比べてしまう心です。これが発動しちゃうと仲良くなれなかったり、学べなかったりします。相手の慢に反応したり、私自身の慢が生じた時、気づくことができればいいなと思います。
まあでも、慢は生じるものですから、生じても気づいても気づけなくても、とにかく学ぶこと。
いつも何からでも誰からでも学ぶ姿勢でいることが大事だと思います。
無学になるなんて、到底想像つきません。学べば学ぶほどに自分がよくわかっていなかった、ということが知らされるばかりです。
いかに自分がさも何でも知っているかのような万能感を持って今まで生きてきたかということが知らされていると感じています。そして今もそれは継続中です。
自己の開発
さてさて、自己の開発。
パユットー師はよくこの開発という言葉を使われていますね〜。
英語だとdevelopment となっています。
(最近、英語を勉強中です)
パユットー師の仏教辞典からものせておきます。
自己修習を具えること
たったこれだけの言葉ですが、難しいっちゃ難しいことなんですよね😂
身、戒、心、慧の、すべての面において
これが難しんでしょうね🤣
一個一個、どれも難しいのですが、慧が備わっていくことが一番難しそうです。
身、戒、心、と訓練していきつつ、慧も段々と、じわじわって長老は仰ってましたけど、開発されていくのでしょうと思います。
自ら修習して
完全に自己の美徳を具えること
まあ、美徳を具えるという結果を目指すは目指すのかもしれないのですが、あくまでもそこにあると思われるものも、過程、プロセスですから、、
そうこのプロセス!
法という言葉の英単語を調べたら、processだったんですね。なんか驚いちゃいました。英語話せる方々は普通なのかもしれないですね〜私にとっては毎日が本当に発見の日々です😊
でもパユットー師の仏教辞典では、
法は、the Doctrine
律は、the Discipline
となっていました。
仏教で法、ダンマとかダルマとか言われるものって、色んな意味で使われるので、それぞれの状況によって、意味が変わってくるのだと思います。
私たちがやることは修習。これだけなんですよね、本当に。
どこまでいっても、結果が出たと思っても、何が起こっても、修習するしかないのだと思います。
結果に執着しちゃうと、それがまた壁になっちゃうんですよね。
執着してるな、と確認しつつ、また修習を続けていく。
いや〜まさに忍耐でしかないのかもしれません😂
仏道を歩むとついてくるものは忍耐力とかアチャンチャーが言ってたような??グナラタラ長老だったかな?😂
できれば楽しみつつ、まあ嫌になることだってありますしね。そんな心も観察しつつ。
みんな精一杯生きてますから。私も精一杯生きてますから。ここは慈悲で。
執着している私の姿を発見するんですね。
執着してるよ〜って😊
やった!執着みっけ!みたいな😂
執着みっけゲーム🎮
またこんな風に書いちゃうと嫌われちゃうんだろうな😂
と思いつつ書いてしまう私の業📝
本来であれば、面白くもなんともない世界なんですよね、きっと。それをいかに楽しみつつ、そして自分ができることを、目の前のことをただやっていく。
人生辛い時あると思います。しんどい時もあると思います。もしかしたら絶望感にかられることもあるかもしれませんが、、無常です。変わらないものはありませんね🙏😊
しっかり勇気を持って、ダメだと思ってしまっている自分自身を観ていきましょう。
と、改めて毎度毎度思いますね。
あ、パーリ語😆
今日はAtta-sampadā
atta 我、自 =attan
だんだんパーリ語のコーナーが短くなっている。。まあでも今回はもうお腹いっぱいな感じなのでこの辺で。。😂
感謝🙏😊
皆様が安穏でお幸せでありますように
智慧が現れますように
グナラタラ長老の言葉を最後に
What is meditation?
Meditation is completely 100%
personal lonly practice.
と、お聞きしました。(リスニングが合ってるといいな〜要チェックですよ〜😂🙏)
生きとし生けるものが幸せでありますように
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