ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具のうち、6つ目の「不放逸具足」です。
このシリーズもそうですけど、、いつも思う。
シリーズ終盤になってくると、しんど〜い😂🙏
精進精進
さて内容です。
不放逸は、時と変化を心に思うことです
中学生だった時くらいかな〜
少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず
という言葉と出会いました。妙に印象的で。
不放逸、これっぽい?・・・
不放逸という言葉に、あ、これだ!と思ったのは、スマナサーラ長老のYoutube。
動画差し替えました。これでした😅🙇♀️💦
長い動画なので、見れない方もいるかもですけど、スマナサーラ長老の経典解説はお勧めです。私は好きです😊🙏
ああそうか、一日中ずっと気づいてたらいいんだ!
とか思いましたね、たぶん。めっちゃ単純に。
実際やってみるとそんな簡単なことではなかったですけど、話を聞いた時はスッと入ってきました。
実際にこの動画を見た次の日に私がやってみたことは、怠けない。ということです。
とりあえず1日、怠けない、でいようと心がけてみたら、めっちゃ疲れました😂
普段どんだけ怠けているかがわかります🤫
そして次の日からは、怠けない、ではなくて、気づく、とか気づき、を意識する。に変更。
毎日朝起きてから夜眠るまでなるべく気づきを意識するようにしてみました。
2020年の6月14日の動画ですから、コロナ禍が始まって間もない頃で、仕事が暇になっていたので、ご法話動画を観まくっていた頃です。
仕事が暇だと考えることが減りますから、修行にはもってこいでした。
まず最初の1時間、半日くらいでしょうか?
自身が今までどれだけ放逸に生きていたのか、ということがわかりました。
たぶん初日の、怠けないようにした日も、まあまあ放逸だっただろうと思います。
あまりにも放逸過ぎて、笑えました😂
笑うしかなかったです🙏
その日以来、気づきと共に生きてるっぽいですよ。まあ放逸な時だってたくさんありますけどね。以前よりはマシと思います。
個人的にはこの質疑応答の動画が好きです。
やっぱり忍耐堪忍。
🙏
不放逸ですから、いつでもどこでもどんな時でも修行中なんですね。忍耐堪忍、精進なんです。
嫌になりますよね🤭😆
だから忍耐堪忍なんですね〜
ちなみに「仏法」からの引用です。
やはり正念のところに、不放逸法が書かれてありました。
「仏法」連続引用🙏😂
ホームさんの仏教講座でも、やはり正念のところで不放逸が出てきました。
うっかりしないこと、念は門番の役目だと仏法にも書かれてありましたし、ホームさんもそのように言われていました。
不放逸でいようとするとき、何をするかと言いますと、気づき、Sati、その時の身体や心を知っていく、ことをします。
「この不放逸は重要な法の原理である。倫理の体系で前進することについて、念を欠いて生活しないという意味に使われるが、これは常に注意する、廃頽にのめり込まない、前進する機会を逸さない、するべきこと、してはならないことを自覚する、常に義務を心に思いないがしろにせず、真剣に行う、常に前進しようと努力するなど、意味が拡大される。」
うっかりって、今何をすべきか理解していない感じかなあ。
なんとなくですけど、うっかりしない、不放逸は、唯一、無明に抗う感じがします。基本、無明な私たち。お弟子様方に、お釈迦様が最後にこの言葉を仰った意味が重たく感じられると言いますか。そう感じてしまいます。
今なにをすべきかと理解している、してはいけないことを自覚する。常に義務を心に思いないがしろにせず、真剣に行う、常に前進しようと努力する。
でもこれって、結果な気もしますよね。そのようになっていくには念を鍛えていかないといけませんし、常に学ばないといけませんね。
「念は社会を維持するのを助け、自分の身も維持する」
相互に。自分だけじゃない、他人だけじゃない。社会を維持していくことは、自分を維持していくこと。自分を維持していくことは、社会を維持していくこと。ですね。
「すなわち、この不放逸という法は責任を思う原理である。」
いつでも今やるべきことをやった方がいいんですね。やるべきことは何かとしっかり気づくためには、時と変化をいつも意識して、精進し続けた方がいいと思います。
どうして不放逸でいた方がいいのでしょう?
カンポンさんが教えてくれてました🙏😊
「ありとあらゆる方向からやってくる
苦しみの流れに打ち勝つことができるのです。」
ありとあらゆる方向からやってくる苦しみの流れ
これって素晴らしい表現だなあと思います。
人生ってそのように感じられませんか?
私はそのように感じています。
苦しみの流れがありとあらゆる方向からやってきます。
そんな苦しみの流れに打ち勝っていくためです。
気づきを高め、なるべく不放逸でいることで、苦しまない方向へと舵をきっていくんじゃないかなあ。。
まあ、仏道の最終目的は解脱とか涅槃とか言われますけど。。
私の今の理解ですと、
今ここの等身大の自分にとっての幸せのためかな。これは感情的に幸せな気分でいることの幸せ感ではなく、、幸せでいたいからということでもないんですけど、、
無常で苦で無我な今ここで常に心の幸せを感じることができるように生きているための、死ぬまで幸せで生き続けているための、最善の方法と言いますか。
死ぬまでとか言っちゃうと、誤解を生んだり大それたことのように聞こえますけど、それって、今ここのことです。
明日ともしれず今日ともしれずです。
まだ死なないと思って生きていますけど、人は死にます。病気になります。老います。
病気になっても老いていきつつも、それを受け入れられて心の幸せを感じていられる。
心が苦しまない。苦しんでいない。それが本当の幸せかなと思います。
それって、それ以上のものが他に見当たらない感じなんですよね。
ここは私の言葉と理解の限界です😂
放逸では、苦しみの流れに流されちゃうんでしょうね。困りますね。
でも放逸な瞬間はいくらでも発見しちゃいますね。あ!放逸でした🤦♀️みたいな。
でも挫けませんよ〜
へこたれないんです。
そんなの当然あるものです。
だから修行してるわけで。
最初の本文に戻ります。
「不放逸具足、熱心に急いで努めること、あるいはこの熱心に努めさせるために時間と変化を意識することが、学習の第六の前兆と呼ばれるものです。」
熱心に
時間と変化を意識すること
不放逸は、パーリ語で、Appamāda
仏陀が涅槃に入られる前の最後の言葉。
最初の引用文章にもありましたが。。
感謝🙏😊
色んな人が色んな言葉で訳されていて面白いんですよね〜
ああ、パーリ語勉強しよう🙏🙏🙏
資具足って、学習の前兆、なんですよね。
善友性から戒具足、志欲具足、我具足、見具足、不放逸具足ときて、次は如理作為具足で最後ですね。
次は如理作為具足、、頑張ってみますか😂🙏
生きとし生けるものが幸せでありますように