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(3) 志欲具足 (Chanda-sampadā)

ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具、3つ目の「志欲具足」です。

志欲は、意欲、モチベーション。
これはけっこう誰もがいつも欲しいものではないでしょうか?
やる気が出ない、ということはこの人生において、私はどれだけ観てきたことでしょうというぐらい、やる気の出ない感じを知っています😂
反対にやる気満々な時というか、意欲に満ち溢れている時は、身体が軽く感じて早く動ける感じがするんですよね〜。

志欲具足

(3) 志欲具足 (Chanda-sampadā)
志欲を完全にすることです。これは、これまでに話した志欲と呼ばれるモチベーションを創造することです。
モチベーションは学習において重要なものです。モチベーションがないと、私たちは前進することが困難で、そうしようとしません。だから、モチベーションがいるのです。しかし、それは正しいモチベーションでなければなりません。志欲、すなわちお話ししたように、知ろう、行おうと熱望することは、知りたい、行いたいであって、手に入れたい、欲しい、味わいたいではありません。現在は少なくとも、生産的な価値観を生もうとし、特に生活の質を奨励する価値のある善い事だけを選んで生産するのです。
ポー・オー・パユットー 仏法の思考と実践

志欲、すなわちお話ししたように、知ろう、行おうと熱望することは、知りたい、行いたいであって、手に入れたい、欲しい、味わいたいではありません。」

ここかな〜。
子どもの学習意欲もそうですけど、知りたい、行いたい。と思ってくれたら親としては楽ですし嬉しいところですよね〜。
ここが、手に入れたい、欲しい、味わいたいだと、志欲ではなくて、、、欲望?
これだと、エネルギーを消費する感じといいますかですね〜。続かないといいますか?

志欲と欲望の違いは、結果の違いもあるのかな〜

志欲の満たされ方と欲望の満たされ方?
どちらも喜びではあると思うのですが、正しいモチベーションは、志欲なのでしょうね。

ここは私自身の感覚なんですけど、手に入れたもの、味わったもの、って、瞬間で終わるので本当に満たされた感じが全然しないといいますか。
知りたい、行いたいで行った時の、知った時、行った時の喜びはけっこう次のエネルギーになるといいますか。
なんかそんな感じかなあ〜。

知りたい、行いたいと、ここがなければ、仏道を歩むことはできないかもしれませんね😂🙏

ちょっと脱線しちゃいますけど、、、

仏法とか、仏教のお説教やご法話を聞いていてですね、善行為しましょう、悪行為をしないようにしましょう。忍耐です、精進ですと、言われてですね、はい🙏喜んで頑張ります😊❣️っていう人が、どれくらいいるかということなんですよね🤭😂

わたしは、そのようにはい❣️🙏って感じなんですけど、このようにはっきりと自分の心を知ることが増えたのは最近のことです。
でも、やる気の出ない時もありますし、貪瞋痴にやられている瞬間だってあるわけですよ。それでも、今は苦しみと共にいられる感覚が少しずつ理解されてきていて、普通に精進できるようになってきてはいる気はしています。
心の調子が悪いとか、体調が悪い時、それは私自身や家族や親しい人もそうなのですが、そういう時に、その自分自身や家族、近しい人々の苦しみと共にいられることができるかどうか。
生きていく上でも、仏道でも、ここけっこう大事ですよね。

子どもを見ていて思うんですけど、基本、子どもって理性がまだ育っていませんから(もちろん年齢や個性、性格もありますが)、よいことをしましょうと言ったところで、はい❣️とはならないわけです。
あまのじゃくだったりするので、しないでくださいということを率先してやったりするんです😂

でも自分で体験して、そうしない方が良い、と思ったことは、一回でしなくなったりしますね。体験ってすごいな〜と思います。それは善悪関係ないですけどね。トラウマになったりすることもありますしね。身に染みる、ということかもしれません。
火傷しない程度に、火に触ること、は、大事でしょうと思います。

脱線💦

正しいモチベーションは、やはり探求ではなく探究なんだな〜
探し求めるのではなく、研究すること。それは何なのか知ろうとすること。
なのだと感じます。
戒具足は2ページにわたって書かれていたのに、この志欲具足は半ページという短さ😂
以前、スマナサーラ長老のご法話でも、モチベーションの話が出た時に、最後は自分で工夫してください的な感じだったような?
ここって、結局は自分がどうするかに直結しているところなので、親が子どもに与えることも難しいところなんだろうなあと思ったりしますね。

でも、子どもを見ていて、感じるのですが、、
親が特に何も言わないのに子どもが自ら進んで何かを行っている時って、やっぱり、心が元気な時だなあって。
無条件で自分という存在をしっかり認められている時、元気いっぱいでこっちが何も言わなくても、一人で勝手に色々やっていますね。
逆に、色々口うるさく言ってしまっている時は、子どもの元気がなくなっていって、結局は親が動かざるを得なくなっている、感じがします。

仏法は縁起を説きます。
因果法則ですね。ここを理解することは、本当に難しいことなんですけど、私たちは何を観察すべきかというと、因果法則をなるべく観た方がいいだろうなと思うわけです。

複雑ですよね。一つの因に一つの果ではないんですもん。色んな因に色んな縁があって果となっている。
でもこのように観ていくと、本当に自分自身の行為、これが大事だと理解されて、自他を軽んずることが少なくなっていくんだろうなって、そう感じています。
私自身の行為、そこにしか私自身が関われないからですね。
煩悩にいつも覆われている私ですけど、今の自分ができるだけ、できることを一所懸命にやっていこうと思いますね。

やはり、ご法話を常に聞いておこう、仏法を常に学んでいこうと、学べば学ぶほどに思っちゃいますね。

(ⅲ) 志欲具足(Chanda-sampadā) (志欲を具える=知り、創造することに関心を持つ)
すなわち、知識に関心を持ち、真実を知ろうとし、すべてを善く行おうとする。
ポー・オー・パユットー 「仏法」

意欲とは

意欲(Chanda)は、重要な法の一つである。
と、パユットー師は仰られます。

仏教は欲求を二種類に分けます。善なる欲求と不善なる欲求です。
①  不善なる欲求を渇愛といいます。この種の欲求は、それに陥れば生命を開発することができません。ただ、好むものと嫌いなものからくる楽と苦におぼれているだけです。
②  善なる欲求は意欲といいます。もし、私たちが慧を開発するなら、心を引きつける新しい望みが生まれます。それは私たちに新しい種類の楽を与えてくれて、生命の開発へと導いてくれます。

意欲が生まれたとき、ブッダは「これは、善なる生命の銀光、金光、学習の曙なり」と言われました。どの子であれ意欲が生まれれば、知を望み善を望み、ものごとを善くしたいという望みが生じます。あるいは、創造する熱望が生まれます。その子は銀の光、金の光によって、間違いなく自己の生命を開発するのです。私たちはそれを学習の曙と呼びました。だから、人に意欲と呼ばれる欲求を起こさせなければならないのです。そして、欲求はすべて渇愛だという誤解を捨てさせなければなりません。行き過ぎれば、「何かを欲することはダメ、捨てるべし、減らすべし、駆逐すべし」ということに変わってしまうからです。
 もし、正しく実践するならば、欲求をやみくもに落とすことはないのです。ただ、不善の欲求を善なる欲望に変えることです。意欲にするのです。そうすれば生きることも善くなり、国も開発されます。知を望み、善を望み、創造を望み、あるいは知と善と善くすることを望む、これがすなわち仏教の心髄に入る最初の鍵なのです。
 仏教を理解するためには、その体系を理解すべきです。仏教を体系的に全体像として理解しなければ、真の仏教を理解する日は来ないでしょう。
 仏教の真の姿が見られるように努力して話してきました。すなわち自然界の真理を深く理解することです。そして自然界の真理の知識を用いて、生きることの開発に役立て、善き生き方をして、平和な社会を作ることです。
 最初に私たちは生まれ落ちると同時に生きていく道具である根を持ちます。それは環境、あるいは外部の世間と交渉するのに用いるのです。その時に、正しい生き方と誤った生き方の選択が直ちに始まるのです。
ポー・オー・パユットー 「テーラワーダ仏教の実践」

ここは、「欲はいけないものなのか」という記事で触れているところでもありますね。
よろしければご覧ください。

これですね、最初に欲望と私が書いていたのは、渇愛のことですね。

いよいよパーリ語の学習が進まないこの頃😂ですが、単語だけは調べて、ここに書いていきますか。

Chanda 意欲 
男性名詞ですね。
英語ですと、conation ; zeal 。

パユットー師の、仏教辞典から
[213]四如意足(Iddhipāda 4 :  path of accomplishment; basis for success)
1. 欲如意足(Chanda : will; zeal;aspiretion)
    :  満足。すなわち行うことを欲求し、常にその行うことを愛し、さらに一層善い果を得たいと望むこと。
---2から以下は省略します。---

苦は、不満足という意味も持ちますね。確か。
意欲は、満足、、、ここちょっと感動。
先ほど書きましたけど、渇愛の欲求の満たし方と、意欲の欲求の満たし方との違い、やっぱり満足感が明らかに違うよな〜なんて、一人で勝手に納得。

もう一個、面白いものを発見。chandaの英語の意のconation。
このconationの印欧語根
ken- 生じる、発生する、起きることを表す。 
と、ありました。
ほっほ〜✨
思うんですけど、意欲って無理矢理出せるものではなくて、湧いてくるものなんですよね。だから結局、やっぱり?

何かの因縁によって生じる(湧いてくる)

ここを観察できると、子どもや自分自身の意欲がみなぎってくる因を作っていくことができるようになりそうだな〜
なんて思いました。

ちょっとまた脱線しますけど、
環境を整えること(戒)
心を整えること(定)
は、大事で、智慧が現れる(慧)ことを目指すということは、条件を整えるということなんだろうな。
いつも思いますが、私にできるのは、ただ準備(条件を揃えていくこと)をすることだけで、結果を出すとかは私の管轄外のことなんだろうな、と。

今、冬のオリンピックやってますけど、皆が目指すその結果はまさに実力のある人だけにやってくるわけではなく、環境が多々影響しますよね、と見ていて思います。
努力が報われるとは限らない🥺ですね💦

でもやっぱり仏道はちょっと違う気がするな〜。
正しい努力ができれば報われるような気がしてます😂
それは世俗のことではないからです。
社会や世界の流れを変えることは非常に難しいことですが、この瞬間の私を変えることはできるからです。
ホームさんの講義やパユットー師の本でも、お釈迦様は、「人間には自己を開発していくことができる」と仰られていると、聞かせていただいています。
でもその結果に執着すると、苦しむ。
いつもその瞬間にあることができれば苦しまないというのは、そういうことなんだろうな〜
とまた一人で納得しちゃいました😂🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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