もう便利はいらない
世の中、本当に便利になったぁと感じることがあるが、果たして便利は正義だろうか。
便利になったものは大挙にいとまがない。昔はコーラなどの清涼飲料は重たいビンで売ってたが、今はペットボトルが主流でずいぶんと軽くなり、衝撃にも強くなった。手紙から電子メールやSNSに替わり、瞬時にかつ気軽に仲間とのやり取りが出来るようになった。車の安全装置やセンサーの発達で、運転中の疲れが軽減された。
しかし、便利さにより社会的に失われたものも多い。飲料水の容器がペットボトルになったことで、空き瓶の換金で得られる子供達のちょっとした小遣いと社会勉強の機会、店とのコミュニケーションの機会が減った。コミュニケーションツールが電子メールやSNSとなり、文章をおこす際の慎重さや配慮、工夫、イマジネーションが劣化した。車に安全装置やセンサーが標準装備されることで、運転する楽しさや危機管理・対処能力が衰退した。
環境の面でも便利さと引き換えに失ったものがたくさんある。便利さと環境は両立しない。便利さを求めることは買い替えや消費の頻度を高くする側面を持つ。そして多量の資源を使い廃棄物の量を増やす。例えばビンからペットボトルになったことで廃棄物の量が増えた。ペットボトルに限らずプラスチック製品のほとんどは生活を便利にしたが、石油の使用量を増やした。手紙から電子メール・SNSになったことで紙の使用量は減ったが、PCやスマホの普及が進み希少な資源(レアメタル)の使用量が増えた。車に安全装置やセンサーを付けることで部品数が増え、製造の過程でより多くの資源とエネルギーを使うことになった。そして最終的にスマホ、車は大量の廃棄物となる。
便利さは省エネに繋がる側面もある。しかし、それは寿命の長い製品を作り利用することで達成される。今の状況はどうだろうか、メーカーは寿命の長い製品を作らない。「より多く売る」という大義があるからである。なので便利なものはどうしても環境・資源の面ではマイナスになる。加えて上記のような社会面での損失もある。そう考えると便利さはその場の瞬間的な喜びに過ぎず、中長期的な便益を検討・俯瞰した概念ではないと感じる。人間は高度な動物だが(と言われているが)、案外直感的に生きている。本来は中長期的な視野で物事を検討した数多の経験から「この便利さは良い!」という直感が導き出されるべきだが、多くの人がそれを出来なくなってきている。退化しているのである。否、それが出来る人もいるが、社会的に黙殺されたり、不利な状況に追い込まれる。そしてメディアが「これが便利だ」と宣伝すれば後先考えることなく飛びつくような人格が形成される。
どうすれば良いか。やはりメディアを出来るだけ見ないようにして、意図的にスマホから距離を置くことである。そして便利さよりも不便だからこそ必要な人とのコミュニケーションや時間の消費を楽しむような社会を構築しなかればならない。これは世界の動きと逆行するようなものだが、この発想こそが地球の様々な問題を解決するであろう。