さよなら絵梨 についての考察(4.14改稿)

藤本タツキ先生が4月11日にジャンプ+にて公開した新作読み切り『さよなら絵梨』。私としては読んで満足したので、それでお終いでもよかったのですが、考察をされている方も多かったので、少しだけ私の考えをまとめておこうと思いました。

ポイント①『さよなら絵梨』は、漫画でありフィクションである。

当たり前のことを言いました。ただ、本作が劇中劇的構成であり、どこまでが現実で、どこまでが虚構であるかという点が考察されていますから、まず確認する必要があるかなと思いました。

まず基本的な立場を整理します。立場Aの方が多いかなと思います。

立場A:『本作冒頭から結末までが作中の1本の映画である』

1:作中の現実であるが、映像化されていない事実→作中には登場しない
2:作中の現実であり、映像化されている事実→映画の一部として描かれている
3:作中の虚構であり、主人公が映像化したもの→映画の一部として描かれている

立場B:『B:本作には映画(劇中劇)である部分と、現実が混在している』

1:作中の現実であるが、映像化されていない事実→作中に登場する
2:作中の現実であり、映像化されている事実→あいまい
3:作中の虚構であり、主人公が映像化したもの→映画の一部として描かれている。

立場C:『暗転以降の場面は現実(絵梨が吸血鬼であり、病院が爆発したのは現実)』説

A説をとった場合、作中世界で描かれているものがすべて劇中劇となり、真実の作中世界が全く描かれていないという奇妙な構成になります。

つまり、通常の劇中劇では、読者は、劇中劇世界から作中世界に帰還し、そこからさらに現実世界へ帰還するわけですが、本作の場合、劇中劇世界から一気に現実世界に帰ることになるのです。その感覚の奇妙さのようなものがあります。


ポイント②『劇中劇』は、ノンフィクションであるかフィクションであるか。

立場A:劇中劇はすべてフィクションであり優太という人物も存在しない

立場B:絵梨が亡くなったことは事実であり、絵梨が吸血鬼だったことはフィクションである

立場C:絵梨が吸血鬼だったことは事実であり、病院が爆発した部分だけフィクションである

立場D:劇中劇はすべて事実であり、撮影した生の映像または、事実に基づいて再撮影したものである

ポイント③虚構と現実に関する作者の意図

次に作中の虚構と現実について
ア「作者は読者にその違いを理解させる前提で描いているのか」
イ「作者は読者にその違いを理解できる前提で描いているのか」

この二つは同じようで違う。少なくともメジャーな作品を描けるだけの作家であれば、読者がそれを理解できるように作るか、理解できない前提で作るかについて明確な意思がある。「半分くらいの人に理解してもらえたらいいかな?特に考えてません。ハハハ」といったことはありえない。

一方で、読者に理解できない前提で作る(読者の判断に委ねる)場合でも、作者なりの答が存在する場合もある。そのための伏線のようなモノを置いておく場合もある。ただあくまで、作者なりの答であり、裏設定のようなものである。

ポイント③ キー・アイテム

判断材料としてのキーとなるのが次の3つだと思う

「絵梨は本当は眼鏡をかけていて、歯の矯正もしていた」
この情報をどう解釈するか

・「ひとつまみのファンタジー」とは何か

・「手振れ」
割としつこく描かれている手振れの演出。シーンの始まりや終わりに挿入されることが多いけど、手振れが全くないシーンもある。これはたまたまなのか。

・大人になった優太

本人なのか、それとも父親が演じているのか

『A:本作冒頭から結末までが作中の1本の映画である』説のポイント

この説をとった場合、この作品のある重大な要素が浮き彫りになる

それはこの作品の主人公の人格が一切、描かれてないと言うことだ。
厳密にいうとただの一点を除いて。

仮に『優太』としよう。彼は映画(劇中劇)を製作した。それだけが本作で唯一確実にいえることだ。それ以外はすべて本当だとも解釈できるし、嘘だとも解釈できる。
作品からその作者の人格について想像することは素敵かもしれないし、愚かなことかもしれない。
A説の結論はつまらないと感じる人もいれば、だからこそ趣深いと感じる人もいるのだろう


私の見解

①本作のテーマ

優太は人をどんなふうに思い出すか 自分で決める力があるんだよ それって実は凄い事なんだ

なのは間違いないと思います

②コンセプト


③ストーリー

単純にいえば、実は彼女が病気でした系の話ではある。鉄板中の鉄板であり、ベタといえばベタ。そこに劇中劇要素と吸血鬼という設定を入れ込むことで、新鮮な印象を生み出しているのは凄いと思う。

④考察


まだ続きます



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