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戦国!室町時代・国巡り(19)駿河編


【0】はじめに

駿河国:石高15万石

庵原郡/有渡郡/安倍郡/志太郡/益津郡
河東地方:駿東郡/富士郡

(2)年表

    永享の内訌
1476年 文明の内訌
1536年 花倉の乱
1537年 河東の乱(~1545年):第一次河東一乱
1545年 第二次河東一乱
1554年 甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)
1555年 三河忩劇
1560年 桶狭間の戦い
1568年 武田氏による駿河侵攻

【1】駿河今川氏

今川国氏
今川基氏(1259-1323)国氏の嫡子。
今川範国(1295-1384)基氏の五男。駿河今川氏の初代当主。
今川範氏(1316-1365)
今川泰範(1334-1409)範氏の次男
今川範政(1364-1433)駿河今川家第4代当主。
今川範忠(1408-1461)駿河今川家第5代当主。
今川義忠(1436-1476)駿河今川家第6代当主。
今川氏親(1471-1526)
今川氏輝(1513-1536)
今川義元(1519-1560)
今川氏真(1538-1615)

今川国氏
(1243-1282)
吉良長氏の次男。通称:四郎
子に基氏、常氏、俊氏、政氏、経国、親氏、娘(一色公深室)、娘(名越高家室)
三河国幡豆郡今川荘の地頭。

今川基氏
(1259-1323)
国氏の子。幼名:龍王丸、通称:太郎。
子に 頼国、範満、頼周、法折、範国。
1285年、安達泰盛の乱(霜月騒動)での戦功に対する恩賞として遠江国引間荘を与えられる。

今川範国
(1295-1384)
基氏の子。
母:香雲院。
子に 範氏、貞世、氏兼(蒲原直世)、仲秋
駿河今川氏初代当主。
元弘の乱で戦い、幕府滅亡後、建武の新政から足利尊氏が離反すると、同族の誼でこれに従った。
1336年に遠江守護職、次いで駿河守護職を与えられた。
1353年に隠居するが、足利直義の死去に伴い、尊氏の要請を受けて室町幕府の引付頭人などを務める。
1365年に範氏が死去すると、次男の貞世を後継者に立てようとしたが、貞世自身の反対により、範氏の子で孫の氏家・泰範兄弟が後を継いだ。
1384年5月19日に死去。

今川範氏
(1316-1365)
範国の子。通称:五郎
子に氏家、泰範
足利尊氏、義詮に仕える。
1353年、父の隠居に伴い、家督を継ぐ。
1365年4月に死去。

今川泰範
(1334-1409)
範氏の次男。
正室:上杉朝顕の娘。
子に範政、泰国、範信
足利義詮、義満、義持に仕える。
駿河今川家第3代当主。室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護。
建長寺に僧侶(喝食)として出家していたが、1365年、父範氏が死去し、兄氏家も間もなく死去したため、祖父範国の命で還俗し、家督を継いだ。
叔父の了俊、仲秋とは不仲とされ、了俊と仲秋が領有していた駿河と遠江を応永の乱の後に取り上げ、自ら領有した。
1378年、3代将軍足利義満より侍所頭人に任じられる。
1391年の明徳の乱や1399年の応永の乱に参戦し、武功を挙げた。
1409年9月26日、76歳で死去。

今川範政
(1364-1433)
泰範の子。通称:五郎。
正室:上杉氏定の娘
子に範豊、範忠、範勝、小鹿範頼
駿河今川家第4代当主。駿河守護。
足利義持、義量、義教に仕える。
1409年、父・泰範の死により家督を相続する。
1416年、上杉禅秀の乱が起こると、上杉禅秀の攻撃を受けて鎌倉から逃亡してきた鎌倉公方・足利持氏を保護した。そして将軍・足利義持の命を受けて軍を率いて上杉房方らと共に鎌倉に攻め入り、禅秀らを討って乱を平定した。
晩年、末子の千代秋丸(小鹿範頼)を溺愛して家督を譲ろうとしたため、千代秋丸と嫡男の範忠の間で家督争いが生じた。
1433年5月27日に死去。
著書に『源氏物語提要』

今川範忠
(1408-1461)
範政の子。通称:彦五郎
子に義忠、範勝、範慶
駿河今川家第5代当主。駿河守護。
父・範政が晩年、末子の千代秋丸(小鹿範頼)を溺愛して家督を譲ろうとしたため、千代秋丸と嫡男の範忠の間で熾烈な家督争いが発生したが、範政の死後、6代将軍・足利義教の裁定により、成年していた範忠が家督を継いで当主となった。狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、斯波氏などの支援を受け鎮圧している。
永享の乱や結城合戦に幕府方として参戦し、武功を挙げた。
1455年には8代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。
1461年3月20日、子の義忠に家督を譲り、ほどなく死去。

今川義忠

(1436-1476)
範忠の子。通称:彦五郎。
正室:北川殿(伊勢盛定の娘)
子に 娘(正親町三条実望室)、氏親、心範
1441年、嘉吉の乱に際して父・範忠の名代として1,000騎を率いて尾張国まで出陣する。
1454年、享徳の乱では、室町幕府より鎌倉公方・足利成氏討伐を命じられた父の名代として出陣。
1461年、父の危篤を受けて駿河守護職を継承。
1465年、見付城から追い出された遠江今川氏の今川貞延を保護。遠江守護職・斯波氏との対立が深まる。
1467年、応仁の乱
1468年、上京。細川勝元からの要請を請け、斯波義廉の分国であった遠江国を撹乱すべく駿河へ帰国した義忠は、積極的に遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。
1473年、美濃国守護代斎藤氏の一族・斎藤妙椿から攻撃された東軍の三河国守護・細川成之を支援するため、将軍の命により三河へも出陣。
 ところが兵糧用として将軍から預けられた所領を巡って、同じ東軍の尾張国守護・斯波義良と対立する。さらに、三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人・巨海氏、狩野氏とも対立し、義忠は同じ吉良氏の被官である飯尾長連の支援を受けてこれら国人を滅ぼしてしまう。これにより、同じ東軍であるはずの斯波義良、細川成之とも敵対することになった。
 1475年、義廉の重臣・甲斐敏光を西軍から寝返らせた東軍は、甲斐を遠江守護代として任じた。これにより同じ東軍ながら、遠江から斯波氏勢力を締め出したい野心を抱く義忠と甲斐氏の関係が悪化し、遠江の情勢は混沌とする。甲斐と斯波義良は遠江へ下向し軍事的に圧力を強め、義忠もまた遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。
1476年、遠江の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討伐すべく、500騎を率いて出陣。勝間田城と金寿城(横地城)を囲み、両人を討ったものの、その帰途の夜、遠江塩買坂にて横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われ、流れ矢に当たって討ち死した。

今川氏親

(1471-1526)
義忠の嫡子。
母は伊勢盛定の娘・北川殿。
正室:寿桂尼(中御門宣胤の娘)
側室:福島助春の娘
子に氏輝、彦五郎、玄広恵探、象耳泉奘、義元、氏豊?、
徳蔵院(吉良義堯室)、娘(中御門宣綱室)、瑞渓院(北条氏康室)、娘(瀬名氏俊室)。
実在に争いがある子として、娘(小笠原春義室)?、娘(松平親善室、後鵜殿長持室)?、娘(関口親永室)?、娘(大谷吉秀室)
1476年2月、父・義忠が遠江国の塩買坂での戦いにおいて戦死。
家臣の三浦氏、朝比奈氏らが父の従兄弟の小鹿範満を擁立して家督争いが起こり、龍王丸派と範満派が分かれて合戦に及ぶ事態になった。
さらに、堀越公方・足利政知の執事・上杉政憲と扇谷上杉家家宰・太田道灌が兵を率いて、駿河国へ進駐して家督争いに介入した。
氏親の叔父の伊勢新九郎が仲裁に入り、範満が龍王丸の後見人として家督を代行する、という形で決着した。
家督の代行となった範満が今川館に入り、龍王丸は母の北川殿とともに小川城に身を寄せた。
やがて龍王丸は15歳を過ぎて成人したが、範満は家督を返そうとはせず、家督奪取の動きを見せた。
1487年、北川殿と龍王丸は伊勢新九郎盛時に助力を求めた。
盛時は石脇城を拠点に兵を集めて今川館を襲撃し、範満を討った。
1492年、甲斐国では守護武田信昌が嫡男の信縄に当主を追われ、信昌や穴山信懸は次男の信恵を後継者に立てて信縄と争った。氏親は諏訪頼満と共に信昌を支援するため甲斐に出兵。その後、穴山氏は氏親に従属を誓う。
1494年、新九郎盛時あらため伊勢宗瑞の遠江侵攻が始まり、遠江中部まで勢力下に収めた。さらに、三河岩津城の松平氏を攻めた。
1504年、氏親は宗瑞と共に武蔵立河原の戦いに出陣し、関東管領・上杉顕定を破る。
1505年頃、中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎える。
1506年 から1508年にかけて、再び伊勢宗瑞率いる今川軍が三河へ侵攻して松平長親(長忠)と戦う。岩津城下井田野で敗れたものの、岩津松平家は衰退して長親の安祥松平家が台頭することになった
1508年、義澄が義稙に将軍職を奪われると、氏親は正式に幕府から遠江守護に任じられた。
1511年、遠江・尾張守護の斯波義達が今川方の刑部城を攻めると、出陣してこれを迎え射ち勝利した。
1516年、三河吉良氏家臣の大河内貞綱が引馬城にて兵を挙げ、義達がこれを支援した。氏親は出陣して引馬城を包囲した。
1517年、氏親は安倍金山の鉱夫を用いて坑道を掘って水の手を絶ち、引馬城を降伏させた。貞綱は討ち死にし、義達は出家して降伏し、尾張へ送り返された。
他方、1515年、甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方して守護・武田信虎と争い、勝山城を一時占拠。1517年、氏親は信虎と和議を結び撤兵し、信達は信虎に降伏した。
1526年4月に分国法『今川仮名目録』を制定する。
1526年6月23日、駿府の今川館で没する。

今川氏輝

(1513-1536)
氏親の子。幼名:竜王丸、通称:五郎。
1526年6月、父・氏親が死去し、家督を継いだ。若年であったため、母の寿桂尼が後見人として補佐した。
1532年頃から親政を開始する。
1535年、相模の北条氏綱と連携して甲斐国守護・武田信虎と対立する国人勢力を後援して信虎と争う。
1536年、弟・彦五郎と同日に死去。

今川義元

(1519-1560)
氏親の子。幼名:芳菊丸、法号:栴岳承芳
母:寿桂尼
子に 氏真、一月長得、嶺松院(武田義信室)、隆福院、女(牟礼勝重室)
生まれた時点で今川氏の後継ぎとして兄の氏輝、および彦五郎がいたため、4歳で仏門に出され、駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられた。
1529年に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承した。
その後、雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度し栴岳承芳となった。
さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深めた。
1536年に氏輝が急死。次兄・彦五郎までもが同日に死亡したために栴岳承芳に継承権が巡ってくることになる。
還俗し、足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗った。
しかし、重臣である福島(くしま)氏が反対し、氏親と福島助春の娘の間に生まれた義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。
義元が後北条氏からの支援を得ることに成功すると戦況は明らかになり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。
1537年2月、今川家の宿敵であった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。
甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)・北条氏綱の怒りを買い、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻した(第一次河東一乱)。今川氏は河東地域を奪われる。花倉の乱で恵探側に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、苦境に陥る。
さらに、尾張国の織田信秀が1540年に三河国に侵攻を開始した。義元は三河の諸侯軍と連合して織田軍との決戦に臨むが、敗れる(第一次小豆坂の戦い)。
1541年、北条氏綱が死去、北条氏は氏康が家督を継いだ。
同年、甲斐では晴信によるクーデターが発生。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信と同盟関係を続けた。
高遠合戦では武田に援軍を派遣した。
1545年、義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする(第二次河東一乱)。
義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方・足利晴氏らと連合し8万の大軍で河越城を包囲した。
氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還する条件で和睦した。
三河では、西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わす。この際、護送を請け負った三河田原城の国人領主・戸田康光が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。
義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。
1548年、織田信秀が三河に侵攻してくるが、雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。
1549年、松平広忠が死去すると、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。岡崎城に家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。
また、織田方の三河安祥城を攻略して、織田家の勢力を三河から駆逐した。その際、信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還する。
1551年に織田信秀が死去する。
1553年には今川仮名目録に項目を追加。
1554年、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(善徳寺の会盟)。
1555年、第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。
同年、吉良氏や奥平氏などが今川氏に叛旗を翻す(三河忩劇)。
1558年、氏真に家督を譲る。
1560年、桶狭間の戦いで討死。

今川氏真

(1538-1615)
義元の子。幼名:竜王丸、通称:彦五郎
子に(吉良義定室)、範以、品川高久、西尾安信、澄存

(2)小鹿氏

今川氏第4代当主・範政が千代秋丸の家督継承を望んだため、範忠と千代秋丸派の家督争いが生じた。幕府の裁定によって範忠が家督を相続したため、千代秋丸こと範頼は小鹿姓を称するようになった。

小鹿範頼
小鹿範満(-1487)
小鹿範慶(-1487)

小鹿範頼
()
今川範政の子。幼名:千代秋丸
範政は千代秋丸の家督継承を望んだが、兄の範忠と家督争いの末に、室町幕府の裁定によって範忠が家督を相続した。
駿府郊外の小鹿を領していたことから小鹿姓を称した。

小鹿範満
(-1487)
範頼の子。通称:新五郎
1476年、従兄で今川家第6代当主の今川義忠が戦死したが、義忠の嫡男である龍王丸(後の今川氏親)が幼少だったことから、譜代家臣の多くが範満の家督継承を支持し、龍王丸とその母の北川殿(幕臣伊勢盛定の娘、伊勢盛時(北条早雲)の姉)は小川郷の長谷川政宣(法永長者)の屋敷(小川城)へ逃れた。これにより、駿河国内は、範満派と龍王丸派間の内乱状態となった。
この内乱に、範満の縁者(父・範頼の母方の従兄弟)である扇谷上杉家当主の上杉定正が、範満を支援するため家宰の太田道灌に兵を率いさせて駿河国へ派遣して介入してきた。享徳の乱で上杉家と協力関係にある堀越公方・足利政知もまた、執事上杉政憲と兵を派遣してきた。
 幕府はこの事態に、龍王丸の叔父・伊勢盛時を派遣した、幕府と伊勢は両派を仲介し、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行することで和談を成立させ、道灌と政憲を撤兵させた。
 ところが、龍王丸が15歳になり成人しても範満は家督を返そうとはしなかったため、1487年に龍王丸の母の北川殿は京都で9代将軍・足利義尚に仕えていた弟の盛時に助力を要請した。盛時は再び駿河に下り、同志を集め、同年11月9日に駿河館を襲撃した。範満は防戦するが、敵わず自害した。範満の甥である孫五郎も共に自害したため、小鹿今川氏は断絶することになった

小鹿範慶
(-1487)
範頼の子(あるいは孫)。幼名:孫五郎。
兄(あるいは叔父)・範満ともども駿府今川館で自害した。

(3)一族

今川常氏(関口経氏)
()
今川国氏の子。
子に顕国、顕氏、貞国、玄基
三河国宝飯郡関口庄を領し、関口氏の家祖となった。

今川俊氏
()
今川国氏の子。
子に俊国
入野氏の家祖となった。

今川政氏
()
今川国氏の子。
三河幡豆郡木田村を領し、木田氏の家祖となった。

今川経国
()
今川国氏の子。

今川親氏
()
今川国氏の子。

今川俊国
()
入野(今川)俊氏の子。
新野氏の家祖となった。

今川頼国
()
今川基氏の子。
中先代の乱で活躍。遠江小夜の中山で敵の大将名越邦時を討取る。
鎌倉を目前にした相模川の合戦で討死。

今川範満
()
今川基氏の子。
兄・頼国と共に中先代の乱に参陣。兄の戦死後、武蔵国内で討死。

今川頼周
()
今川基氏の子。

法折

今川貞世→遠江今川氏を参照

今川氏兼(蒲原直世)
(1329?-1398?)
今川範国の三男。
蒲原氏の家祖となる。
1370年、管領細川頼之に従い、河内国において戦功があり、将軍足利義満より遠江山梨郷を賜り、越後守護代に補される。
兄・貞世が九州探題となると、氏兼も兄に従って九州に赴き、九州南朝方の菊池勢と戦う。
1374年、京都に帰陣。

今川仲秋→遠江今川氏を参照

泰国
範信

範勝
範慶

玄広恵探(今川良真)
(1517-1536)
今川氏親の庶子。
家督の後継を巡って福島氏に擁されて花倉城に拠るが、栴岳承芳派に攻められて瀬戸谷の普門寺で自害した。

象耳泉奘
(1518-1588)
今川氏親の四男。

今川氏豊

(4)関口氏

関口氏は今川家の庶流。三河国宝飯郡長沢村関口を領した。
幕府奉公衆

今川常氏(関口経氏)()
関口顕氏()
関口兼氏()
関口満幸()
関口満興()
関口教兼()
関口政興(刑部大輔)(-1550)教兼の子。幕府奉公衆
関口氏縁(彦三郎・刑部大輔)(1505-1560)政興の子。幕府奉公衆
関口氏経(越後守)()氏縁の子
関口氏次()
◇刑部少輔家
関口氏兼(刑部少輔)(-1525)教兼の子。
慶王(刑部少輔)()氏兼の子。
関口氏純(親永)()
関口正長()氏純の長男
関口道秀()氏純の次男

関口兼興()政興の子
関口氏幸()兼興の子。松平信康に仕えた。
関口氏心(1598-1670)氏幸の子。柔術・関口新心流の開祖
関口氏業()氏心の長男
関口氏英()氏心の次男
関口氏暁()氏心の三男
◇宮内少輔家
関口氏教()政興の子。宮内少輔
関口氏安()氏教の子。
関口氏隆()氏教の子。
関口氏頼()氏教の子。
関口氏成()氏安の子。
関口氏親()氏成の子。

◇刑部大輔家
関口氏縁
(1505-1560)
政興の子。通称:彦三郎、越中守、刑部大輔。
子に氏経。
花沢城主。
1531年までに先に今川氏に仕えていた弟・氏兼を頼って同氏に仕えた。
1537年頃に新たに築かれた駿河花沢城の初代城主となる
1560年、桶狭間の戦いで討ち死。

関口氏経
()
氏縁の子。通称:越後守

◇刑部少輔家
関口氏兼
(-1525)
関口教兼の子。通称:刑部少輔。
妻は堀越貞延の娘。
子に慶王(関口刑部少輔)
駿河国に下って今川氏に仕えた。

関口氏純(親永)
(1522頃?-)
瀬名氏貞の次男。関口刑部少輔(幼名:慶王)の養子。別名:氏広
母は堀越貞基の娘。
室は関口刑部少輔(幼名:慶王)の娘?
子に 正長、道秀、大谷元秀室、築山殿(徳川家康の正室)
1562年、娘婿の家康が今川氏から独立したため疑われ、今川氏真から切腹を命じられて死去したとされるが史実は異なる。

関口正長
()
氏純の長男


関口兼興
()
政興の子

関口氏幸
()
兼興の子。

(5)蒲原氏(今川蒲原氏)

今川蒲原氏は今川氏の庶流。今川範国の三男・氏兼を祖とする。

(元の蒲原氏(入江蒲原氏)は、藤原南家流工藤氏一族入江氏支族。入江清定の子、蒲原清実を祖とする。南朝方として行動し、北朝方の今川範国によって滅ぼされる。後に足利将軍家に仕え、家系は江戸時代まで存続した。)

蒲原氏頼()
蒲原氏慶()
蒲原貞氏()
蒲原満氏(-1536)
蒲原氏徳(-1560)満氏の子。
蒲原徳兼()氏徳の子
蒲原徳氏()徳兼の子
蒲原徳勝()徳兼の子

蒲原満氏
(-1536)
伊勢新九郎長氏、葛山長嘉とともに千余の兵をもって伊豆堀越に押し寄せ、茶々丸を討った。

蒲原氏徳
(-1560)かんばらうじのり
満氏の子。別名:氏政
子に徳兼
駿河国蒲原城主。
1536年、父・満氏の死に伴い家督を継承する。
1549年、安城合戦で大将を務め戦功を上げる
1560年、桶狭間の戦いで戦死。

蒲原徳兼
()
氏徳の子。
子に徳氏、徳勝
掛川城陥落まで氏真に従う。

【2】太原雪斎(太原崇孚)


【3】駿河三浦氏

三浦氏は坂東八平氏の一つで、平安時代の相模国の「みうら」の地を本拠地とする武家。宗家は1247年の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅ぼされた。
南北時代期、朝村または胤村の末裔とみられる宗久は、三浦左衛門尉を称して足利氏に属し功を挙げ、1352年、駿河北安東荘の半分を領した。

宗久
高久
範永
三浦範忠()
三浦範高()小鹿範満を推す。
三浦氏員(範時)()範高の子
三浦正勝()氏員の子
三浦貞勝()氏員の子
三浦氏満(氏俊)(1548-1630)氏員の子
三浦正次()正勝の子
三浦直信()正勝の子
◇一族
三浦正俊(-1565)
◇一族
三浦義就(-1560)

三浦範高
()
範忠の子。通称:次郎左衛門
今川義忠、氏親に仕える

三浦氏員
()
範高の子。上野介?。別名:範時
室は伊勢宗瑞の娘。
子に正勝、貞勝、氏満、娘(岡部正綱の室)
氏親に仕える。横山城主。

三浦正勝
()
氏員の長男。二郎左衛門?
子に正次、直信
今川義元討死のあと、家康に仕えた。

三浦貞勝
()
氏員の次男。通称:上野介
今川氏に仕え、のち武田氏に属した。

三浦氏満
(1548-1630)
氏員の三男。通称:次郎左衛門尉。別名:氏俊。
母は長松院(伊勢宗瑞の娘)。
子に氏正、氏義、儀持、儀俊、氏秀、氏忠
今川氏真に仕えた。
朝比奈泰朝と共に上杉謙信の交渉の取次を務めるなど、朝比奈氏と並び筆頭家老の地位にあった。
今川氏の滅亡後は、武田氏、北条氏、徳川氏に仕え、1585年頃までには出家した。
三男儀持が継いだ。

三浦正俊
(-1565)
内匠助、備後守。
今川義元より嫡男・龍王丸(後の今川氏真)の傅役の頭人に任じられ、氏真が実際の政務にあたるようになると側近(奏者)として活躍した。
遠江国を中心に300貫の所領を得た。
1565年、徳川家康に寝返った飯尾連龍に対し、氏真の命により飯尾氏の居城引間城を攻めたが、戦死した。

三浦義就
(-1560)
通称:左馬助。
今川義元に仕える。
1551年、義元から尾張・笠寺砦の守将に任じられた。
1560年5月、桶狭間の戦いに従軍し、討死した。

【4】岡部氏

藤原南家工藤氏の工藤為憲の流れで、鎌倉時代に岡部泰綱(入江清綱の子)が駿河国志太郡岡部郷の地頭になったことに始まる。
岡部大和守とその子・岡部和泉守の系統が惣領であり、武田氏の駿河侵攻に際して、氏真に従い相模へ移り、後に後北条氏に仕えた。また、和泉守の弟・岡部次郎兵衛は、早い段階から武田氏に仕えていた。
左京進の代に惣領家から親綱・元信の系統が別れた。

岡部仲綱()左京進
岡部久綱(-1547)仲綱の子?。
岡部親綱(-1562)仲綱の子。
岡部貞綱(1505-1566)仲綱の子。

岡部正綱(1542-1584)久綱の子。
岡部長秋(-1570)久綱の子。
岡部長教()久綱の子。

岡部元信(元綱)(1527?-1581)親綱の子。
岡部真堯()元信の子。
岡部元昌()元信の子。

岡部長綱()貞綱の子。
岡部貞次()貞綱の子。

岡部長盛(1568-1632)正綱の子。
岡部昌綱()正綱の子。
岡部宣勝(1597-1668)長盛の子。

岡部仲綱
()

岡部久綱
(-1547)
通称:美濃守。法号:常慶。別名:信綱。
子に正綱、長秋、長教、娘(伊丹康直の正室)。

岡部親綱
(-1562)
仲綱の子。通称:左京進、法号:玄忠。
1536年、花倉の乱で義元方に味方した。方ノ上城・花倉城(史料上は「葉梨城」)を攻撃、落城させる功績を挙げた。

岡部貞綱
(1505-1566)
仲綱の子。
子に 大姥局、長綱、貞次

岡部正綱
(1542-1584)
久綱の子。
室は三浦範時娘。
子に長盛、昌綱、娘(朝比奈宗利室)
1568年12月、武田信玄が今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、今川方の立場を貫徹、抵抗し、翌年4月に信玄が後北条氏に攻められ駿河から撤退した後に駿府今川館を占拠した。同年12月に再び武田軍が駿河に侵攻した際にも頑強に抵抗したが、その武勇を高く評価され、臨済寺の鉄山宗純を介して開城し、以後武田氏の家臣として仕えた。
1570年正月の駿河花沢城攻めに参戦した。1573年12月の三方ヶ原の戦いや翌1574年2月の岩村城の戦いにも馬場信春の先陣に属して参戦し、活躍した。1574年の武田勝頼による高天神城攻めにも参陣した(弟・長秋が討死)。
正綱の知行は定納高968貫文余であり、それに対して70人の軍役負担が求められた。
1581年、高天神城が徳川家の侵攻で陥落し(高天神城の戦い)、一門で同城城代の岡部元信らが討ち死にした。
1582年2月の織田・徳川軍による武田攻め(甲州征伐)が開始されると、穴山信君と共に徳川家康に内通した。
3月に武田氏が滅亡すると徳川家康の家臣となった。
1583年11月8日、駿河国において死去した。享年42。

岡部長秋
(-1570)
久綱の子。通称:治部右衛門。
1570年1月、駿河国花沢城(花沢城の戦い)において討死した

岡部元信
(1527?-1581)
親綱の子。通称:丹波守。元綱→元信
子に小五郎、真堯、娘(土屋昌恒室)、養子に元昌(土屋昌吉の子)
今川家、後に甲斐武田家に仕える。
1548年の第2次小豆坂の戦い、1549年の安祥城の戦いで戦功を挙げる。
1552年、兄弟との所領争いで今川義元から領地を没収されたことから、出奔、武田氏に仕える。その後、再び今川氏に仕官。
1560年、桶狭間の戦いでは鳴海城を拠点とした。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も岡部元信は抵抗し続け、義元の首と引き換えに開城を申し入れた。駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を100余の手勢で攻撃し、水野信近を討ち取り、城を焼き払った。
1568年12月、武田信玄の駿河侵攻によって駿府を脱出した今川氏真と行動を共にし、後北条氏の元に身を寄せた。1571年の甲相同盟の復活によって今川氏真の駿河復帰は事実上困難となったため、駿河先方衆として武田氏に仕えた。武田勝頼から岡部氏惣領の地位を認められる。
1574年、高天神城攻めに参加。同年、勝頼から所領528貫を賜る。
1575年、長篠の戦で、子息・小五郎が戦死。
徳川氏が遠江の諸城を攻略する中、遠江小山城の在番を務める。
1577年、遠江高天神城の在番を務める。同年5月、遠江国青柳ほか1558貫9000文の知行を賜る。
1581年、高天神城で戦死。

岡部真堯
()
元信の子。通称:五郎兵衛、小次郎
子に通綱。
1581年3月に父・元信が第2次高天神城の戦いで戦死したため、家督を継承。父と同じ五郎兵衛を称した。
1582年3月、甲州征伐で甲斐武田家が滅亡した後は、家康に仕えた。
真堯の息子の五郎左衛門通綱は親族の土屋利直を頼ってその家臣となり、利直の子・忠胤が相馬氏の養子となった際に忠胤付の家臣として相馬中村藩に移ってその重臣になった。

岡部元昌
()
土屋昌吉の子。元信の養子。通称:五郎兵衛
結城秀康に仕え、子孫は福井藩家臣になった。
(元昌の系統が代々五郎兵衛を名乗り、元信の嫡流として扱われた)。

岡部長盛
(1568-1632)
正綱の長男。通称:内膳正。
正室:松平清宗の娘、継室:洞仙院(徳川家康の養女、松平康元の娘)
武勇に優れ、「岡部の黒鬼」と称された。
子に 高源院(菊姫)、宣勝ほか
1583年、父の死により家督を継いだ。
1584年の小牧・長久手の戦い、1585年の信濃国上田城攻めなどに参戦した。1590年、徳川家康が関東に移封された際、下総山崎1万2000石を与えられた。
1600年の関ヶ原の戦いでは、下野国黒羽城の守備につく。
1609年、丹波亀山3万2000石に加増移封された。
1615年の大坂夏の陣で功績を挙げ、1621年に同国福知山5万石に加増移封された。
1624年、美濃大垣5万石へ移封される。
1632年11月2日、65歳で死去した。

岡部宣勝
(1597-1668)
長盛の子。
和泉国岸和田藩の初代藩主。

【5】駿河朝比奈氏

朝比奈俊永()
朝比奈親徳()俊永の子
朝比奈信置 (1528-1582)親徳の子。 駿河庵原城主。
朝比奈義永()親徳の子。
朝比奈義信()親徳の子。

朝比奈信良(?-1582)信置の子
朝比奈元永()信置の子
朝比奈宗利(1563-1647)信置の子
朝比奈信清()信置の子
朝比奈良保()信良の子

朝比奈信置 (1528-1582)
親徳の子。
1548年の小豆坂の戦いでは先陣を務め、手柄を立てた。
1569年、武田信玄の駿河侵攻に際して武田方に帰属する。
武田信玄から庵原領を与えられ、「信」の文字を一字拝領し、駿河先方衆筆頭(150騎持)として重用された。
1575年の長篠の戦いに従軍し、1580年には持船城の城代にもなった。
1582年2月から織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、持船城は徳川軍に攻められて開城する。庵原山城も徳川軍に落とされる。
織田信長の命令により自刃した。享年55。

朝比奈信良
(?-1582)
信置の子。通称:三郎右兵衛尉、右兵衛大夫
室は 跡部勝資娘。
子に 良保
1575年、朝比奈氏の嫡流朝比奈泰茂より名跡を譲られる。
1581年、父より家督を継ぎ、右兵衛大夫を称した。
1582年、武田家が滅亡すると織田信長により信濃国諏訪において処刑された。

朝比奈元永
(-1628)
信置の次男
1582年、甲州征伐で父と兄が相次いで死亡したが、元永は家康に召し出されて井伊直政に附属させられた。しかしm不服だったために出奔し、浪人した。
天下統一後に豊臣秀次に招かれて仕え、秀次の没後は諸将の元を渡り歩き、文禄・慶長の役にも従軍して功があったという。
その後は掛川城主・山内一豊に仕え、一豊が土佐藩主となると1,000石を知行し、小姓頭を務めた。
1628年没。

朝比奈宗利
(1563-1647)
信置の三男。
子に 良明、勝興、正次、定治、利清、娘(深津正但の室)、娘(鈴木一之の室)
1582年、甲州征伐で父と兄が相次いで死亡。その後、羽柴秀吉に仕えたが程なく本能寺の変が起きたため、秀吉の許しを得て家康に合流するために堺へ急行し、家康が既に帰国したと聞くとそのまま三河に走り、400石で家康に仕えることになった。
1584年、小牧・長久手の戦いでは家康の旗本に属し、長久手での戦闘で首級を挙げる。その後も小田原征伐、関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍。
徳川秀忠の代には世子の家光附きとなった。
1633年、大番組頭を辞して小普請に移る
1647年、85歳で没。

朝比奈良保
(1582-)
信良の子。跡部昌秀の養子

【6】駿河葛山氏

駿河国駿東郡の国衆。
藤原惟康の孫・親家が大森に住んで大森氏となり、子・惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、恩賞を得た。

葛山氏堯()
葛山貞氏()氏堯の子。
葛山氏広(-1539?)伊勢宗瑞(北条早雲)の子。葛山氏堯の養子。
葛山氏元(1520-1573)氏広の養子。
葛山信貞(1559-1582)氏元の養子。

葛山頼秀

葛山氏堯
()
子に貞氏。養子に氏広
駿東郡葛山城主。

葛山貞氏
()
氏堯の子。
子に氏元。御宿綱治?

葛山氏広
(-1539?)
伊勢宗瑞(北条早雲)の子。通称:八郎、中務少輔
養子に氏元。
1538年9月に重病に陥り、1539年4月までに死去。

葛山氏元
(1520-1573)
葛山貞氏の子。葛山氏広の養子。通称:八郎、左衛門佐、備中守、中務少輔
室はちよ(北条氏綱の娘)
子に松千世、竹千世、久千世、ちやち(瀬名氏詮室)、おふち(葛山信貞室)
葛山城城主。
1537年に今川義元と北条氏綱が争った河東一乱の際には氏広と共に北条方についた。
1545年、北条氏から離反して今川氏に従属した。その功績によって御厨地方を与えられる。
1568年末に武田信玄の駿河侵攻の際には、氏元は朝比奈信置や瀬名貞綱らと武田方に内応し、翌1569年、穴山信君とともに後北条氏の後援を受けた富士郡の富士信忠の守る大宮城を共に攻める。戦功によって、従来の駿東郡に加えて富士郡の一部も領有した。
1572年、信玄の六男・信貞を次女・おふちの婿養子とし家督を譲る。
後北条氏と内通して武田氏への謀反を企図したことが露見し、1573年2月末、信玄の命令によって信濃国諏訪湖へ一門悉く入水した。

葛山信貞
(1559-1582)
武田信玄の六男。葛山氏元の養子。通称:十郎。別名:武田義久。
母は油川夫人。
室はおふち(葛山氏元の娘)。
1572年、家督を継ぐ。
1573年2月末、謀反の嫌疑によって養父・氏元が諏訪において誅殺される。
1582年、織田信長の甲州征伐の際には小山田信茂等と共に勝頼を離反したが、甲斐善光寺において信茂等と共に討たれた

(2)御宿氏

御宿氏は、葛山氏の庶流

御宿綱治(1523-1557)
御宿友綱(1546-1606)
御宿政友(1567-1615)
御宿政綱()

御宿綱治
(1523-1557)
葛山貞氏の子?
室は跡部勝忠の妹。
子に友綱、小山田信茂室、武田信堯室
1557年4月。今川義元が妻を奪おうとしたために今川氏と敵対し、御宿館で今川勢と交戦して、妻子を殺害して自害。

御宿友綱
(1546-1606)
綱治の子。幼名:若丸。通称:左衛門次郎。監物。
母は跡部勝忠の妹。
室は長坂光堅の娘。
子に政友、政綱。
1554年に父母と離れて駿州相国寺へ出家。
1558年、父の仇討を画策したことが義元に発覚したために甲州へ逃れて、母方の伯父である跡部勝忠を頼る。その縁で武田信玄に仕え川中島の戦いを始めとして功名を挙げた。
1580年12月、隠居。
武田信玄の侍医を務めたとの伝承がある。

御宿政友
(1567-1615)
友綱の子。
室は松田憲秀妹。
1580年、父の隠居に伴い家督を継ぐ。
武田氏、北条氏、徳川家康と主君を転々と変えた後に家康の次男である結城秀康に仕えた。「御鉄砲頭衆500石」。
1607年、秀康が死去した後は、後継ぎの松平忠直に仕えたが、忠直と不和になったため、1610年以降浪人となった。
1614年に大坂の陣が始まると豊臣方として大坂城に入り、大野治房を補佐する。
1615年、天王寺・岡山の戦いにおいて、松平忠直家臣の野本右近に討ち取られた。

御宿政綱
(1568-1623)
友綱の次男。通称:源太。
子に政秀。
武田氏の滅亡後、北条氏を頼り板部岡融成の家臣となり22貫の知行を受けている。
北条氏滅亡後は、松平忠輝に仕える。
1616年、忠輝改易後の動向は不明
1623年に信濃国で死去した。享年56。

【7】福島氏(くしま)

遠江国高天神城を中心にし勢力を広げたが、花倉の乱において今川義元に敵対し敗北し、没落。

福島助春(-1521)
福島氏春()助春の子。
福島助昌()
(福島越前守):花倉の乱で寿桂尼の説得を退けて他の福島一門とともに、玄広恵探を擁立した。

福島範為
福島為基

(福島正成:北条綱成・福島勝広の父とされる人物。上記福島氏との関係は不明。)

福島助春
(-1521)
通称:左衛門尉
今川氏親に仕える。高天神城主。
子に氏春、娘(氏親の側室)
1521年、今川氏親の命を受け甲斐へ侵攻し、富田城を陥落させる。さらに東進して甲府へ迫るが、飯田河原の戦い、上条河原の戦いで武田信虎に撃退され、原虎胤に討たれる。

福島助昌()

【8】斎藤氏

斎藤安元()丸子城主

斎藤元清()佐渡守
斎藤弾正忠()元清の子

【9】今川氏の家臣(駿河衆)

(1)由比氏

由比光詔(-1541)
由比光教(-1560)
由比光広()

由比安忠()
由比正信(-1560)
由比正純(-1568)

由比光詔
(-1541)
通称:源左衛門、周防守。
庵原郡川入城主。
1541年、信濃にて武田軍に敗北し戦死。

由比光教
(-1560)ゆいみつのり
庵原郡川入城主。
子に光広

由比光広
()

由比正信
(-1560)
安忠の子。通称:美作守
子に正純、盛正、景国
駿河国益津郡・徳一色城主、庵原郡川入城主。
1560年5月、桶狭間の戦いで討死した。

由比正純
(-1568)
正信の子。通称:出羽守
庵原郡川入城主。
1568年、掛川城の戦いで戦死

(2)庵原氏

庵原氏は駿河国庵原郡の豪族で、律令制以前の時代よりその名が見られる。
白村江の戦いで水軍を率いた廬原臣、蝦夷征討に従った五百原虫麻呂が知られる。平安時代前期に朝臣姓を賜っている

庵原政盛(-1505)
庵原忠職()
庵原忠胤()由比忠任の子、庵原忠職の養子。
庵原元政()忠職の長男。
庵原忠縁()忠職の次男、忠胤の義弟。
庵原忠春(-1560)忠職の三男。
庵原忠良(-1560)忠職の四男。
庵原忠詮()
◇一族
庵原朝昌()

庵原忠胤
()いはら ただたね
駿河国庵原城主。
由比忠任の子、庵原忠職の養子。通称:安房守
子に元政。
1561年、今川家に保護されていた武田信虎が今川氏真に対する謀叛を企てていたのを阻止し、信虎を駿河から追放するのに功を成した。
1568年の武田信玄による駿河侵攻に対し、先陣を切るも敗北(薩埵峠の戦い)

庵原元政
()
庵原忠職の長男。別名:之政、通称:美作守
1560年、桶狭間の戦いを生き残る。
遠江掛川城において今川氏真に最後まで仕えた家臣の一人。

庵原忠縁
()
庵原忠職の次男。通称:将監
1560年、桶狭間の戦いを生き残る。
遠江掛川城において今川氏真に最後まで仕えた家臣の一人。

庵原忠春
(-1560)いはら ただはる
忠職の三男。通称:右近
1560年、桶狭間の戦いで討死。

庵原忠良
(-1560)
忠職の四男。
1560年、桶狭間の戦いで討死。

(3)駿河一宮氏

一宮宗是(-1560)
一宮元実()

一宮宗是
(-1560)
子に元実。
持舟城主。
1554年、甲相駿三国同盟により、武田信玄が信濃国に侵攻した際に、宗是を援軍として信濃に派遣した。
1560年5月、桶狭間の戦いで討死した。

一宮元実()

(4)長谷川氏

長谷川正宣(1436-1516)
長谷川元長(-1560)
長谷川能長()
長谷川正長(1536-1572)
長谷川正成
長谷川宣次

長谷川正宣
()
加納義久の子、長谷川長重の養子。通称:次郎左衛門尉。
小川城主。
1476年、塩買坂の戦いで今川義忠が討死したため、今川氏親を匿った。

長谷川元長
(-1560)
正宣の子。通称:伊賀守
子に能長、正長
駿河国小川城主
今川氏親・氏輝・義元に仕えた。
1560年5月、桶狭間の戦いで討死した。

長谷川正長
(1536-1572)
元長の子。通称:藤九郎、紀伊守。
子に正成、宣次、正吉
駿河国小川城主
1570年、甲斐国の武田信玄が駿河に侵攻すると、本拠地を放棄し遠江国へ逃れ、三河国から進出してきた徳川家康に仕えるようになった。
1572年12月22日の三方ヶ原の戦いに参加。討死にした。享年37。

長谷川正成
()

長谷川宣次
()
正長の子。通称:伊兵衛。
1582年から家康の小姓を務め、やがて別家を興し旗本となった。
子孫に、江戸時代に活躍した火付盗賊改方の長谷川宣以がいる。

(5)富士氏

藤氏は駿河国富士郡富士上方の領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を継承する社家であり、また戦国期には富士城城主を務める武家でもあった。

富士信盛()
富士信忠(-1583)信盛の子。
富士信通(-1619)
富士信重(1561-1646)
富士信定
富士能通(1570-1652)鷹野徳繁の子。信忠の養子。

富士信家

信友
信久
信吉
信成

富士信忠
(-1583)
信盛の子。通称:兵部少輔
子に 信通、信重、信定、大鏡坊頼賀室
大宮城(富士城)城主。
富士山本宮浅間大社の富士大宮司。
花倉の乱の際、信忠は栴岳承芳(後の今川義元)を支持した。
1561年7月には今川氏真より大宮城城代に任命されている。
武田氏が同盟を破棄し駿河侵攻を開始しても、信忠は今川陣営に留まる。
掛川城陥落後は、富士氏も後北条氏の庇護・援護を受けるようになる。
1569年、穴山信君、葛山氏元の攻撃を受け、大宮城陥落後も北条方で戦うが、1571年に氏真より暇を与える(今川陣営からの離脱を許す)旨の感状が嫡子である信通に発給されると、富士氏は今川・北条勢から離れることとなる。
1572年4月、甲斐国の甲府へ赴き、武田氏に帰属する。

富士信通
(-1619)
信忠の子。通称:蔵人、中務丞・能登守
子に信家
富士山本宮浅間大社の大宮司。
父・信忠と行動を共にし、今川氏に属し、後に武田氏に属した。
1573年には武田勝頼より二百貫の所領を与えられる。
1577年には武田勝頼より信通の大宮司職就任が認められる。

富士信重
(1561-1646)
信忠の子。通称:又市郎、市兵衛
子に信友、信久、信吉、信成。
1584年小牧・長久手の戦いの際に徳川家康より駿河国富士下方吉原に所領を与えられた後に大番を勤め、関東転封後の1591年5月に改めて相模国鎌倉郡100石を与えられる。

(6)安部氏

安部氏の先祖は、後醍醐天皇の皇子・宗良親王に従った諏訪神党に属し、1355年、桔梗ヶ原の戦いでの敗北後、諏訪神党の各家は各地に散り、安部氏の祖も駿河の安部谷へと移住して安部を名乗った。
戦国時代には駿河守護家今川氏に属し、今川氏滅亡後は徳川氏に従った。

安部信真(-1564)
安部元真(1513-1587)信真の子。
安部信勝(1552-1600)元真の子。
安部信盛(1584-1674)信勝の子。

安部信真
(-1564)
通称:刑部大夫。

安部元真
(1513-1587)
信真の子。通称:大蔵尉
子に信勝。
主君の今川義元より偏諱を賜り元真を名乗る。
今川氏滅亡後は徳川家康に仕え、遠江国伯耆塚城に入城。

安部信勝
(1552-1600)
元真の子。通称:彌一郎
正室:水野忠重娘
子に信盛、正成、天野康宗正室、富塚信綱室
今川氏滅亡後は、父と共に徳川家康に仕える。
蟹江城合戦では、石川数正と共に前田長種が守る蟹江城の支城・前田城を攻め、戦功を挙げる。
1590年、家康が関東に移封された際、武蔵国榛沢郡・下野国梁田郡内の5250石の領地を賜った。

安部信盛
(1584-1674)

(7)荻氏

荻氏は清和源氏の甲斐武田氏と同じ逸見氏を祖に持つ一族。室町期に初代・荻氏誉が足利義満から駿河松野荘を与えられ国人として定着した。

荻慶徳()
荻清誉(1508-1568)慶徳の子。
荻久誉()清誉の長男。
荻君誉()清誉の次男。

荻清誉
(1508-1568)おぎきよたか
久誉の子。通称:図書助、小次郎。
子に久誉、君誉
駿河国松野城主。
1568年、武田信玄が駿河侵攻すると、信玄の懐柔には応じず、松野山で武田軍と戦ったが、討死を遂げた(内房口の戦い)。

荻久誉
()
清誉の長男。

荻君誉
()
清誉の子。
父・清誉が討ち死した後、武田信玄に降伏した。
穴山信君に仕え松野郷を500貫を領した。

(8)江尻氏

江尻親良
(-1560)
通称:民部少輔
1560年5月、桶狭間の戦いで討死した。

(9)興津氏

興津盛綱
興津清房
興津彦九郎
興津修理進
興津大学助

(10)駿河矢部氏

入江氏は平安時代後期に、入江維清(藤原為憲の曾孫)が駿河国有渡郡入江を本貫として入江氏を称したのを始まりとする。
矢部氏はその一族。



矢部定則()
矢部定清(1556-1622)

矢部定清
(1556-1622)
定則の子
駿河国有渡郡矢部を拠点とする。
当初、今川氏真、後に関東に転封された徳川家康に仕官し、武蔵国荏原郡に知行を与えられる。
1609年、下総国千葉郡に440石を賜る。

(11)海老江氏

海老江元行
海老江里勝(1551-1633)

海老江里勝
(1551-1633)
元行の子


【10】今川氏の家臣(遠江衆)

・遠江朝比奈氏
・天野氏
・松井氏
・小笠原氏
・関口氏
・新野氏
・井伊氏
・大沢氏
・飯尾氏

【11】今川氏の家臣(三河衆)

・吉良氏
・松平氏
・山田氏
・鵜殿氏
・牧野氏
・菅沼氏

【12】今川氏の家臣(尾張衆)

・山口氏
・戸部氏
・近藤氏

【13】城郭・古戦場・地理

[1]志太郡

徳一色城(田中城)
志太郡・山西地方
1537年、駿河今川氏によって築かれた。
1570年、武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された。
1570年正月、武田信玄により攻め落とされ、馬場信春により改修。田中城に改名。武田家家臣山県昌景が入城。
1582年、織田信長の甲州征伐の際、徳川勢により攻められるが城将の依田信蕃が頑強に抵抗し、主家の武田勝頼の死後まで守り抜いた。
江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた。

小川城
志太郡・山西地方
焼津の海岸線から約1km内陸、海運の拠点であった小川湊近くに所在する。
西北約3kmには徳一色城(のちの田中城)が位置する。
駿河国志太郡小川に勢力を張り、法永長者と呼ばれた長谷川氏の居館。

石上城
志太郡・山西地方
南北朝時代には近くに位置する徳山城の支城として南朝側に属していた。1353年今川範氏に攻められ落城した。

朝日山城(岡部城)
志太郡・山西地方
志太平野の北西部に立地する独立丘「潮山」北端の支峰「牛伏山」(朝日山)山上に所在する。
岡部氏によって築かれた。

花倉城(葉梨城)
志太郡・山西地方
志太平野に臨む山塊の一峰、城山に所在する。
今川範氏によって1353年頃に築城された。
1536年5月、当主今川氏輝の急死により勃発した、栴岳承芳(後の今川義元)と兄・玄広恵探による家督争い(花倉の乱)において、玄広恵探派が拠点とした。

花沢城
志太郡
高草山から南東に派生した丘陵に位置する。
今川氏家臣・関口氏禄が初代城主とされる。
甲斐の武田信玄による駿河侵攻では、最終盤に激戦地となった(花沢城の戦い、1570年)。

石脇城
志太郡
静岡平野と志太平野を分断する山塊・高草山の南側山裾から、瀬戸川へ張り出す小丘に位置する。
1476年頃から1487年にかけて伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が滞在した。

小山城

[2]安倍郡

駿府城(今川氏館)
安倍郡
14世紀、駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれる。
1585年から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。

賤機山城
安倍郡
安倍川の左岸に沿うように伸びる賤機山山頂に所在する。
駿河守護・今川範政が駿府に入った1411年ごろに築城された。

安倍城
安倍郡
安倍川の右岸にそびえるの山の頂に所在する。
駿河狩野氏一門・狩野貞永(貞長)の築城と伝わる。
狩野氏は、建武政権崩壊後の南北朝期には南朝方につき、北朝方の今川氏と安倍川を挟んで熾烈な攻防を繰り広げた。
1392年の南北朝統一後は今川に恭順していたが、1433年の今川範政の死によって勃発した今川家中の内紛に乗じて離反するものの、逆に今川方に攻められて衰退。

丸子城
北城と南城があり、北城を指すと見られる宇津谷城、鞠子城、南城を指すと見られる三角城、赤目ヶ谷砦の別名がある。
北城は応永年間、駿河国守護今川氏の家臣、斎藤安元歴代の居城として築城された。
今川義忠が、1476年に戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と、小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていた。氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城である。
1568年、武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれた。
1570年、信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、1578年頃には屋代勝永に替えた。
1581年3月の高天神城落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守(松平清善?)を置いたが、1590年の関東移封に伴い廃城となった。

[3]有渡郡

久能山城
有渡郡
駿河湾に面した標高307メートルの有度山山中に位置する。
1536年に起きた今川氏輝の跡目争い花倉の乱の際に、玄広恵探派が当地を拠点としている。
1568年、武田信玄が駿河侵攻を開始し、今福友清・虎孝・昌和が当地に入って久能寺を他所へ移転した。
1582年に武田氏が滅び、今福虎孝が自刃。今福昌和も戦死すると徳川家康の城となった。
1616年に家康が死去し、御廟所(東照宮)となった。

持船城(用宗城)
有渡郡
今川氏の属将であった一宮元実によって天文年間に築城され、駿河守備の重要な支城として重用された。関口親永(氏純)らが城主を務めた。
しかし、桶狭間の戦い以降、今川氏が衰退すると、駿河国侵攻した武田信玄らによって攻められ奪われる。
武田氏城代として三浦義鏡、および武田水軍に招かれた向井正重らが入る。
徳川家康の駿河侵攻により牧野康成らに攻められ、落城。城代の三浦、向井らは揃って討死してしまうが、すぐ翌年には武田勝頼らによって再び奪い返されて再建し、朝比奈信置が城代となった。
1582年、甲州征伐によりまたも駿河に侵入した徳川家康により再攻撃を受け、降伏。城代朝比奈信置は久能山に退き、この際に廃城とされた

[4]庵原郡

江尻城
庵原郡
巴川を背後に控える位置にある。
1568年末、武田氏による今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。
武田氏の駿河経営の拠点となり、当初の城代は山県昌景。
山県の死後、江尻城代は甲斐河内領主である穴山信君が務める。
1582年2月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際しては信君は内通し、城を開城し、降伏している。
武田氏滅亡後は徳川氏の勢力下になり、徳川氏の庇護を受けた穴山勝千代(信治)が城代となるが、勝千代の夭折により1601年に廃城になった。

興津城(横山城)
庵原郡
興津川の左岸に突き出した山中にある。
今川氏の被官となった興津氏の居城。
1569年に城下の興津川で武田氏と北条氏(今川氏の援軍)が対峙した時には横山城は武田氏の占領下にあり、同軍の主要な拠点となった。

常円寺城(川入城)
由比氏の本城。

由比城
室町時代に由比氏によって川入城の支城として築かれた。

蒲原城
富士川右岸の、東海道と駿河湾を見下ろす山の頂にある。
蒲原から由比・興津にかけての範囲は、高い山地がそのまま駿河湾に突き出す地形であり、平野部分が狭く東海道随一の難所とされる。
1582年に織田・徳川連合軍に攻められ落城、廃城となった。
武田信玄が駿河侵攻を開始する。最初の侵攻で信玄は蒲原城を落とさずに駿府に入ったところ、今川氏救援のため北条氏政が派遣した北条氏信率いる援軍が蒲原城に入り武田軍封じ込めの拠点とした。
1569年、武田氏の再侵攻時には総攻撃を加え、北条氏信ら後北条勢や今川諸将は戦死し落城。武田方が掌握した。

[5]富士郡

大宮城(富士城)
富士郡
駿河の国衆である富士氏の拠点。
1561年に今川氏真より富士信忠が大宮城の城代に任ぜられた。
今川氏の滅亡を迎えると、富士氏は後北条氏の庇護を受けるようになる。
武田氏から1568年12月、1569年2月、同年6月の三度の攻撃を受ける。最後には武田氏に帰属する。

[6]駿東郡

三枚橋城(沼津城)
駿東郡
別名観潮城。
狩野川河口域に位置する。
1579年9月に武田勝頼の軍勢と北条氏政の軍勢が黄瀬川を挟んで対峙した。武田勝頼は三枚橋城に武田信豊・春日信達らを黄瀬川に布陣する北条軍の押さえとして配置。
1582年2月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻が開始され、3月28日夜に信達は三枚橋城を放棄し、落城した。春日信達は海津城へ逃れており、小笠原信嶺は降伏し、織田氏から本領を安堵されている。
開場した後は松平忠次が城主として入城した。

興国寺城
駿東郡
愛鷹山南麓に位置する。
1487年、今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を本拠地とした。
早雲が本拠地を韮山城に移した際には、重臣である富永政直が興国寺城代に任じられた。
1568年12月、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻、北条氏康は今川方の援軍として興津まで兵を出すが、この際に興国寺城を自領に収め、垪和氏続を城番(のち城主)に任命した。
1571年に甲相同盟が再び成立すると、興国寺城は武田氏に引き渡された。
1582年3月、武田氏が滅亡すると興国寺城は徳川領となり、徳川家康ははじめ牧野康成、次いで竹谷松平家の松平清宗を2,000貫で配した。
1601年徳川氏創業の功臣として興国寺城の城主となった天野康景が1万石で入封し興国寺藩が立藩する。
しかし、興国寺藩は改易となり、1607年3月に廃城となった。

長久保城
駿東郡
愛鷹山の尾根の末端を利用した平山城で、南に黄瀬川、西にその支流の桃沢川、東に同じく支流の梅ノ木沢川と、三方を川に囲まれた位置にある
1545年の第二次河東一乱では今川義元軍の攻囲を受け、駿東地域からの北条軍撤退の舞台となる。
武田信玄による駿河侵攻を経て、1582年の武田氏滅亡後は徳川家康の持城となった。
1584年には牧野康成が城主となった。
1590年の小田原征伐後、関東に家康が移封されると中村一氏の持城となったが、1600年に移封され長久保城は廃城となった。

葛山城
駿東郡
愛鷹山の尾根が東方に伸びた末端にある。
葛山氏の城。
1582年に武田氏が滅亡するとともに廃城となった。

深沢城
駿東郡
馬伏川と抜川の合流地点の丘に位置する。
16世紀初頭に今川氏の今川氏親が国境と街道の守備のため深沢城として築城した。
1568年に武田信玄が一時占領するが1570年には北条氏康・氏政父子が攻略し占拠、北条綱成を城主として配置した。
しかし同年末には武田信玄が大軍を率いて包囲、結局翌年の1571年に北条綱成は深沢城を退去し、深沢城はふたたび武田家の支配下となった。
駒井昌直が城主であり、武田氏が滅亡すると深沢城に火をかけて、昌直らは退去した。
徳川氏の所領になると、深沢城は北条氏への備えとして再建され三宅康貞が守備した。
1590年に北条氏が滅亡すると廃城となった。

吉原城
()
「河東一乱」で北条勢が拠点とした城

[8]河川

大井川

安部川

富士川

[9]重要拠点

沼津
駿河湾に臨む伊豆半島の付け根、愛鷹山の麓に位置する港町。
黄瀬川が狩野川に合流して海に注ぐ河口部に位置する。
東海道五十三次の12番目の宿場・沼津宿がある。

江尻
巴川河口部に位置する。
東海道五十三次の18番目の宿場・江尻宿がある。
巴川の河口が土砂の堆積によって南進したことにより港としての機能は清水湊へと移って行った。

安倍金山


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