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戦国!室町時代・国巡り(7)河内編


【0】はじめに

河内国:石高24万2100石(1598年)
山城、摂津、大和、和泉、紀伊に接する。

北河内:茨田郡/交野郡/讃良郡
中河内:河内郡/高安郡/大県郡/若江郡/渋川郡/志紀郡/丹北郡
南河内:志紀郡/安宿部郡/古市郡/石川郡/錦部郡/丹南郡/八上郡

(2)年表
1324 正中の変
1330 元弘の乱
1335 中先代の乱
1336 建武の乱
1346 藤氏一揆
1348 四條畷の戦い
1350 観応の擾乱
1352 男山八幡の戦い(第一次京都攻防戦)
1360 細川清氏の失脚
1361 畠山国清の乱
1366 貞治の変
1379 康暦の政変
1392 千早城陥落。畠山氏による河内国支配が実現
1392 明徳の乱
1399 応永の乱
1416 上杉禅秀の乱
1428 北畠満雅の反乱
1432 大和永享の乱
1440 結城合戦
1441 嘉吉の変
1445 畠山持国が死去。義就が継ぎ、畠山氏にお家騒動。
1454 義就派の遊佐氏が弥三郎派の神保氏の屋敷を襲撃する
1460 嶽山城の戦い
1467 応仁の乱
1477 若江城の戦い
1483 犬田城の戦い
1485 山城国一揆
1493 明応の政変
1507 永正の錯乱
1511 船岡山合戦
1531 大物崩れ
1532 享禄・天文の乱
1532 飯盛城の戦い
1542 太平寺の戦い
1565 永禄の変

【1】畠山金吾家

 畠山氏は坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国・男衾郡畠山郷に所領を得て畠山姓を称したことに始まる。治承・寿永の乱において、その子・畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、1205年に武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。
 その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が継承した。これにより、畠山氏は、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の庶流となった。室町幕府において畠山氏は足利尾張家(武衛家・斯波家)に次いで高い序列に列せられた。
 嫡流である奥州畠山家が衰退する一方で、畠山国清の家系(金吾家)が畠山家の惣領格となった。金吾は衛門府の唐名であり、畠山家の惣領格となる。

①畠山貞国
②畠山家国(-1335)
③畠山国清(-1362)家国の子。5代。
④畠山義深(1331-1379)家国の子。6代。
⑤畠山基国(1352-1406)義深の子。
⑥畠山満慶(-1432)基国の次男。能登畠山家初代。
⑦畠山満家(1372-1433)基国の長男。
⑧畠山持国(1398-1455)満家の長男。
⑨畠山持永(-1441)満家の次男。持国の弟。
⑩畠山義就()持国の子。畠山総州家初代。

(1)畠山家国

(-1335)
子に国清、義深、義熈、清義、国頼、義輝、清渓尼(足利基氏室)

(2)畠山国清

(-1362)
家国の子。
官位:左近将監、阿波守、左京大夫、修理大夫。
子に義清、義晴。
足利尊氏に従い、鎌倉幕府討幕、建武の新政から離反した後の南朝との戦いで和泉、次いで紀伊の守護となる。後に河内国の守護にもなり、畿内に勢力を広げた。
1335年、中先代の乱の際、足利直義のもとで参戦。その功で和泉国守護に補任される。
1336年3月、九州多々良浜の戦いでも直義軍として出陣。
同年9月、南朝の武将・岸和田治氏と戦い、八木城まで撤退させる。しかし、天王寺から中院右少将と楠木一族の橋本正茂らが治氏の援軍に来ると、治氏は城中から撃って出たため、国清は挟み撃ちされた格好になり、蕎原城まで撤退して籠城、これも落とされて敗走する。
1336年10月、紀伊に出兵。1337年、和泉国守護職を解かれる。
細川皇海らと協力して、1338年末頃までには紀伊国北部をほぼ平定。
1347年8月、楠木正行が挙兵。国清は幕府軍として争った。
1350年、観応の擾乱。尊氏の弟・足利直義に属し、敗れた直義が京都を脱出して南朝に属すると国清も従うが、後に尊氏方に付き、武蔵野合戦に参戦。
1352年頃まで紀伊で行動する。
1353年、鎌倉公方足利基氏を補佐する関東管領となり、伊豆国の守護となる。
1358年、南朝方の新田義興を謀殺。
同年、尊氏が死去したのを契機に、出家。
1359年、足利義詮からの援軍要請を受け、上洛。
1360年、細川清氏が義詮と対立し失脚。
1361年、かつての直義派の武将達から基氏に対して国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚し領国の伊豆へ逃れた(畠山国清の乱)。修禅寺城に籠城するも落とされ、基氏に降伏した。
1362年没。

(3)畠山義深

(1331-1379)
家国の子。
子に基国、持深、深秋、石垣満国。
関東で兄と共に北朝方として戦う。
1361年、兄・国清が伊豆国で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏。
1366年、幕府に許され、貞治の変で失脚した斯波高経の分国であった越前国守護に任命され、高経を打ち破った。
のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前守護を歴任した。

(3)畠山基国

(1352-1406)
義深の嫡男。法号:徳元
子に満家、満慶(満則)。
室町幕府第6代管領。侍所頭人、引付頭人、越前国・越中国・河内国・能登国・紀伊国・山城国守護などを歴任した。
1376年、侍所頭人に就任
1379年、父が死去したため越前守護を継承した。
同年の康暦の政変で管領となった斯波義将と越前を交換、越中守護に代わった。
また、能登守護職吉見氏頼、次いで本庄宗成が、いずれも失脚したため1391年、基国が守護となり、以後畠山氏の分国となった。
1382年、将軍・義満から楠木正儀追討を命じられ、正儀に代わって河内国守護に就任。
1392年、楠木正勝の守備する千早城が落城。畠山氏が名実共に河内国の支配者となる。
同年、明徳の乱には幕府方として参陣。翌年から1394年まで侍所頭人に再任、山城国守護も兼任した。
1398年から1405年まで管領を務める。
1399年、応永の乱にも幕府方として参陣。戦後、義弘の領国だった紀伊国を与えられた。
1402年から1403年、山城国守護に再任。これにより基国の分国は、山城国、河内国、紀伊国、能登国、越中国となった。
1406年、死去。

(4)畠山満慶

(-1432)
基国の次男。能登畠山家初代。
子に義忠(嫡子)、教国。
1406年に父が亡くなると将軍・義満の逆鱗に触れ蟄居していた兄・満家に代わって畠山家の家督を継ぐ。
1408年、義満が死去すると、満慶は家督を兄に返還する。満家は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与えた。
義持と対立していた足利義嗣が上杉禅秀の乱に呼応して反乱を起こそうとすると、満慶は義嗣を援助しようとしたため、義持の命令により捕らえられ、剃髪して蟄居するように命じられた。
1432年、死去。

(5)畠山満家

(1372-1433)
基国の長男。
子に持国、持永、持富。
室町幕府第10代管領。河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。
将軍・義満の逆鱗に触れ蟄居していたため家督を継ぐことができなかったが、1408年、義満が死去すると、弟・満慶から家督を返還された。
義持政権では重用され、1410年から1412年、1421年から1429年までの間、管領を務めた。
1424年に伊勢守護に補任。1428年の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替、同年に山城守護に補任された。
同年、義持が死去した時、後継者を義持の弟4人のうちから籤引きで定めることを決めたのは満家であった。
この結果、青蓮院義円が還俗し、第6代将軍・足利義教となった。
1433年、死去。

(6)畠山持国

(1398-1455)
満家の長男。
養子に持富 (実弟、のち廃嫡)、実子に義就(庶子、のち嫡子)
室町幕府12代管領、河内・紀伊・越中・山城守護。
1433年、父の死により家督相続。
1432年、大和永享の乱で大和へ出兵
将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に三家に強く干渉した。
1441年、義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は結城合戦への出陣を拒んだことから、家督を弟・持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。
しかし、義教の行動に恐怖を覚えた赤松満祐が、義教を殺害する事件が勃発する(嘉吉の変)。
持国はただちに挙兵して持永を討ち、家督を奪回した。
7代将軍に足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し徳本入道と名乗る。
1442年、満祐が擁立していた足利義尊を討ちとる。
持国は義教によって家督を追われた者達を復権させ、同時に自らも勢力拡大を狙っていたが、これに細川氏が対抗、義教に取り立てられた側に肩入れして各大名のお家騒動を誘発させた。
さらに、持国には嫡出の男子が無く、弟の持富を後継としていたが、1448年に庶子の義夏(のちの義就)を召し出し持富を廃して後継とする。これが一部の家臣の反対に遭い、甥で持富の子の弥三郎(政久)が後継者に擁立され,
家督争いが勃発する。当初は義就派が優勢であったが、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元と山名宗全により弥三郎派が盛り返し、屋敷を焼き討ちされ、持国は隠居する。しかし、義政の介入で義就が上洛、弥三郎は没落した。
1455年に死去、家督は義就が継いだ。

(7)畠山持永

(-1441)
満家の次男.。官位:左馬助。
河内国・紀伊国・越中国守護。
1441年、兄・持国が6代将軍・足利義教の怒りに触れて家督を更迭されると、家臣の遊佐氏・斎藤氏らに擁立されて当主となる。
しかし、義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)と持国が赦免され、持永は京都から出奔、越中に逃れたが、持国方に打ち破られた。

(8)一族

畠山義清
()
国清の子。
子に清貞、持純。

畠山義熙
()
畠山家国の子。

畠山満熙
()
義熙の子。

[2]畠山尾州家

畠山金吾家から別れた応仁の乱で東軍に付いた畠山政長の家系であり、主に紀伊国と越中国に勢力を有した。

 畠山持富(-1452)満家の三男。
 畠山政久(1441-1459) 持富の子。弥三郎。名は義富とも。
①畠山政長()尾州家初代、紀伊・河内・越中・山城国守護(管領)。
②畠山尚順()政長の子、紀伊・越中・河内半国守護。
③畠山稙長(1509-1545)尚順の長男。紀伊・越中・河内半国守護。
④畠山長経()尚順の次男。紀伊・越中・河内半国守護。
 畠山晴熙()尚順の四男。
⑤畠山晴満(弥九郎) 系譜不明。紀伊国・河内国半国守護。
⑥畠山政国()尚順の三男。紀伊・河内国半国守護。惣領名代とされる。
⑦畠山高政(1527-1576)政国の長男、紀伊国・河内国半国守護。
⑧畠山秋高(1545-1573) 政国の三男、河内国半国守護。
 畠山貞政(1557-1641)政尚(政国の次男)の子。
 畠山政信(1591-1675)貞政の子。
 畠山基玄(1636-1710)政信の子。

(1)畠山持富

(-1452)
 満家の三男。
子に弥三郎、政長。1425年に元服。
1450年に義就が家督を継承したが、異議を挟むことは無かった。

(2)畠山政久(弥三郎)

(1441-1459)
持富の子。弥三郎。名は義富とも。
伯父の畠山持国に嫡子がいなかったため後継者になっていたが、後に庶子の義就に変更された。
これに一部の家臣団が反発、1454年に弥三郎擁立の陰謀が発覚して持国に排斥されたが、弥三郎は細川勝元に匿われ反撃、持国を隠居に追い込み、義就を伊賀国に追い出した。しかし、将軍・足利義政の支持を得た義就は上洛。弥三郎は再び追い落とされる。翌年、持国が死んで義就が当主になる。

(3)畠山政長

(1442-1493)
持富の子。
1459年、兄・弥三郎が死去したため、政長は弥三郎派の遊佐長直・神保長誠・成身院光宣らの支持を受けて弥三郎の後継となる。
1460年、将軍・足利義政の命令で失脚した義就に代わり幕府に帰参、義政より偏諱を受けて、政長と名乗る。
同年から2年半かけ、義就が籠城する河内嶽山城を包囲・陥落させ、義就の追討に功績を挙げた(嶽山城の戦い)。
1464年、細川勝元(妻の従兄弟にあたる)の後任の管領に就任する。
1466年、細川氏と山名氏の対立が強まり、山名持豊(宗全)は義就を味方に引き入れる。義就は河内国に侵攻し、政長方の軍を破った。
1466年末には、将軍・義政が畠山義就の赦免を決め、政長は管領を解任された。義就は、政長に代わり、越中国、河内国、紀伊国の三ヵ国を安堵され、幕府に出仕した。
1467年、政長は京都の自邸に火を放ち、上御霊神社に立てこもった。義就勢との間に戦闘が始まり、摂津国に敗走した(御霊合戦)。
1467年、応仁の乱にが政長は東軍として参加。
 1477年、畠山義就によって若江城は落城し、河内を実力で奪取されてしまった(若江城の戦い)。
 1477年に管領に就任。翌年、山城守護に任じられる。
 1482年、幕府から義就討伐命令を取り付けて政元と共に出陣。しかし、政元が勝手に義就と単独講和して引き上げてしまい、義就軍の南山城侵攻や、山城の国人・農民達による国人一揆(山城国一揆)を招いてしまう。
 1483年、河内北部の犬田城の救援に向かおうとして義就に撃破され、犬田城も落とされる(犬田城の戦い)。
 1489年、義尚が亡くなり、足利義材(後の義稙)が将軍に就任すると、政元への対抗上義材と連携を組んで家督を維持し、権勢を誇った。
 1493年、将軍・義材が、河内国の畠山基家(義豊)(義就の子)征討の軍を起こす。幕府軍として河内国に侵攻し、諸城を落とし、畠山基家の本城・高屋城に攻め寄せた。
 しかし、義材に同行せず京都に残っていた細川政元から、香厳院清晃(のち足利義澄)の擁立と政長討伐、畠山基家の赦免の令が発せられた(明応の政変)。
 赤松政則は誉田城に入り、政長を挟撃する構えをとった。政元は、丹波国守護代・上原元秀、被官・安富元家らを河内国に向かわせ、政長を攻撃させた。
 将軍・義材と政長・尚順父子は、正覚寺城に立てこもったが、援軍が阻まれ、孤立無援となった。政長は尚順を逃がした後、自害した。

(4)畠山尚順

(1476-1522)はたけやま ひさのぶ
政長の子。
子に 稙長、長経、政国、晴熙、晴国、基信、細川晴宣、大内義興室、徳大寺公胤室、日野内光室
 1493年、明応の政変で父が自刃。紀伊へ逃げ延びた。
 1497年、義豊の守護代家の遊佐氏と誉田氏の対立による内紛をきっかけに尚順は挙兵し、高屋城を奪い義豊を山城へ追い出した。
 同時期に大和で尚順派の国人筒井順賢・十市遠治らが蜂起、義豊派の越智家栄・家令父子と古市澄胤を追い落とし尚順は河内・大和を奪取した。
 更に1499年、反撃に出た義豊に対し河内十七箇所での決戦で勝利し、死に追いやる。
 越前の朝倉貞景を頼っていた義尹(義材)が近江坂本に進撃するが、政元派の六角高頼に敗れ周防へ去る。
 尚順も紀伊へ退散。大和は政元の配下赤沢朝経が二上山城に入城して筒井氏側の国人を討伐、筒井派は没落して大和は政元の支配に入った。
 1500年、尚順は根来寺・粉河寺の衆徒と共に和泉岸和田城を攻撃し、尚順側から離反した和泉上守護家・細川元有、下守護家・細川基経を自害に追い込む。だが、討伐軍の赤沢朝経に敗れ、再び紀州に没落する。
 1504年になると、朝経と摂津守護代の薬師寺元一が反乱を起こすなど、政元政権における内部対立が表面化する。
 尚順は総州家の義英と和睦を結び政元に対抗しようとする。
 しかし、1506年、政元と和睦した朝経に誉田城と高屋城を攻略され義英と共に没落した。
 1507年、政元が暗殺され、朝経も丹後で戦死すると(永正の錯乱)、細川澄元の配下・赤沢長経(朝経の養子)が行った大和遠征に抵抗したが、義英との同盟が決裂し、澄元と和睦。
澄元の同族細川高国・細川尚春及び赤沢長経の援軍と大和国人衆の合流を得て、1508年に義英が籠もる嶽山城を落とした。
 義尹と結んだ高国と共に澄元及び義英と敵対、義尹が周防守護大内義興に奉じられ上洛すると高国と共に堺で出迎え支持した。
 1511年、澄元陣営の上洛戦では、河内の義英方との戦闘で紀伊守護代の遊佐順房(筑前守)が戦死するなど苦戦するも、船岡山合戦で義稙方が勝利したことによって再び優勢に立った。
 1517年、稙長に正式に家督を譲り隠居。以降は紀伊の領国支配に専念する。
 1520年、内衆の野辺慶景が湯川・玉置氏と謀反し、堺に逃亡した。
 1522年、淡路で死去。

(5)畠山稙長

(1509-1545)
尚順の長男。
1517年、父の隠居により家督を継承。
1518年、義興が周防に帰国し、高国と将軍・足利義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった父・尚順は義稙に味方。高国との関係を重視する稙長と対立。
1520年、畠山義英に高屋城を包囲され、落城するも、直後に奪還し、畠山義英を大和へ追放する。
1528年、柳本賢治によって高屋城を陥落させられ、堺公方政権の下で高屋城は畠山義堯のものとなった。
1531年、高国が大物崩れにおいて自刃。同時期に河内守護代の遊佐順盛が死去。
1532年、飯盛城を攻撃中の畠山義堯が一向一揆衆に襲われ自刃(飯盛城の戦い、享禄・天文の乱)。
1534年頃、晴元との融和を図る守護代・遊佐長教の手により追放される。
1541年、木沢長政が細川晴元に反旗を翻すと、遊佐長教と和睦し、畠山晴満と畠山在氏を追放し、高屋城を奪還、畠山氏の当主に復帰した。
1542年、太平寺の戦いで木沢長政が討死し、畠山在氏も没落したため河内の国は平定された。
高国派の後継者である細川氏綱を庇護。
1545年、死去。「頓死」と書かれ、急死であったことが窺われる。

(6)畠山長経

()
尚順の次男。
1534年、兄・稙長に代わり、遊佐長教に擁立されて畠山尾州家の家督を継ぐ。
1535年ころまでに失脚。

(7)畠山晴熙

()
尚順の三男。
遊佐長教に擁立された兄・長経が遊佐長教と対立、失脚したために1536年、晴熙が擁立されたが、正式に後継者と認められなかったため「屋形」を称した。
1538年、畠山晴満が遊佐長教に擁立されて高屋城に入城すると、抵抗することなくその座を譲り渡す。
1545年、従五位下に叙され伊予守に任じられた。

(8)畠山晴満(弥九郎)

()
系譜不明。
紀伊国守護、河内国半国守護。
1538年、遊佐長教に擁立されて晴満が「屋形」として高屋城に入城し、幕府から家督継承を承認された。
河内守護代・遊佐長教は、主君・畠山稙長の更迭などで総州家の木沢長政らとの和睦を図っていた。畠山在氏と晴満が協調しながら河内国を治める半国守護体制を実現した。
しかし、1541年、木沢長政が細川晴元に反旗を翻すと、畠山稙長が遊佐長教と和睦。高屋城を奪還し、当主に返り咲く。
1542年、稙長は晴満との和解を拒否。将軍・義晴は稙長を味方にするため、晴満を「御敵」に付した。晴満は京都から木沢方の城へ入ることとなった。
太平寺の戦いで木沢長政が討死し、晴満の消息は不明となる。

(9)畠山政国

(?-?)
尚順の三男。
子に 高政、政尚、秋高
紀伊国守護、河内国半国守護。
1545年に兄・稙長が死去すると、政国は惣領名代として高屋城に入る。
晴元政権は畠山尾州家の家督を能登畠山氏出身の畠山四郎(晴俊)に変更していたため、家督承継は認められなかった。だが、一方で河内守護代の遊佐長教が政国を擁立したことで、四郎は高屋城に入れずに終わった。
 政国は遊佐長教と共に細川氏綱を支援した。
1549年、長教は氏綱方となった三好長慶と共に細川晴元勢を江口の戦いで破り、晴元は13代将軍・足利義輝と共に近江へ逃れた。
しかし、実権を握る長教への不満のためか、政国は出家。1552年には政国の嫡男の高政が畠山尾州家の当主となった。

(10)畠山高政

(1527-1576)
政国の嫡男。
父・政国は河内守護・遊佐長教に実権を握られていることへの不満のためか出家。
1551年、その遊佐長教が暗殺される。
1552年、高政が家督を継ぐ。
1558年、安見宗房との対立から、高政は居城の河内高屋城から堺に逃れ、その後紀伊へと移った
1559年、三好氏が兵を出したことにより高屋城に復帰するも、高政は安見宗房と和睦した。
翌1560年、三好氏による河内侵攻を受け、堺へ退去。
1561年、和泉岸和田城にいる三好長慶の弟・十河一存が死去したのに合わせ、高政は根来衆らとともに紀伊から和泉に進軍。
1562年、和泉久米田の戦いにおいて、長慶の弟である三好実休を討ち取り、高屋城を奪還。
しかし、続く河内教興寺の戦いに敗れ、紀伊へ撤退。
1565年、永禄の変。将軍・足利義輝が三好三人衆らに討たれると、高政は家督を弟の政頼(秋高)に譲る。
1576年、死去。晩年にキリスト教の洗礼を受けている。

(11)畠山秋高

(1545-1573)
政国の子。
1565年、兄から家督を承継する。
1568年、足利義昭が織田信長と共に上洛してくると、秋高は河内半国を安堵され、高屋城に復帰する。
1573年、河内守護代の遊佐信教により殺害される。

(12)畠山貞政

(1557-1641)
政尚の子。
子に 政信、宮原家政室
秋高の死後、守護の座を失うが、紀伊国有田郡の領主として畠山氏は存続。
1584年、小牧・長久手の戦いの際、家康の誘いで紀伊での挙兵を計画。
1585年、秀吉の紀州攻めに抵抗。貞政の居城・岩室城も秀吉軍に攻められて落城した。

(13)畠山政信

(1591-1675)
子に基玄、義玄、高玄、能勢頼春室、林信篤室
豊臣秀頼の重臣・片桐且元の娘婿となり、且元のもとで大坂の役を戦う。
徳川家光に仕える。

(14)畠山基玄

(1636-1710)
政信の子。
1679年、奥高家に列せられる。綱吉の信任は厚く、側用人を務める。
5000石まで加増された。

[二]一族

(1)畠山政尚(政能)

政国の次男
子に貞政
紀伊岩室城主。

【3】畠山総州家

畠山金吾家から別れた応仁の乱で西軍に付いた畠山義就の家系であり、主に大和国と河内国に勢力を有した。

①畠山義就(?-1491)河内・紀伊・越中国守護
②畠山義豊(1469-1499)河内国半国守護
③畠山義英(1487-1522)河内国半国守護
④畠山義堯()河内国半国守護
⑤畠山在氏()河内国半国守護
⑥畠山尚誠()

(1)畠山義就

(?-1491)
持国の子。河内・紀伊・山城・越中守護。幼名次郎。
子に修羅、義豊(基家)、猶子に政国。
遊女との間の子といわれ、石清水八幡宮の社僧になるはずであったが、12歳の時に召し出され後継とされた。これをきっかけに家督争いが勃発。
1448年、8代将軍・足利義成(後の義政)の裁可で持国の庶子・義就が後継者と定められた。元服して義成の偏諱(「義」の字)を受けて畠山義夏と名乗った。
1454年に持国が弥三郎を擁立しようとした家臣達を追放するが、弥三郎を細川勝元・山名宗全や大和の国人である筒井氏が支持。弥三郎派に襲撃され、形勢不利となった義夏は京都から伊賀へ逃れた。
 しかし、義政の怒りを買った宗全は隠居、下向。義夏が河内から上洛して弥三郎を再び追い落とした。
 1455年に義就と改名して右衛門佐に叙任、持国の死去により家督を継承した。
 義就は分家の能登守護・畠山義忠と幕府奉公衆と共に河内・大和に転戦、大和国人・越智家栄を味方として弥三郎支持の大和国人成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信らを追い落として宇智郡を領有した。
 ところが、1457年に大和の争乱が起こった際、義就は義政の上意と偽って家臣を派遣したが、これが義政の怒りに触れて所領を没収された。
 1459年、弥三郎派の成身院光宣・筒井順永らが勝元の軍勢に守られ大和へ帰国、越智家栄と交戦したため、義就は援軍を派遣したが、光宣の訴えで細川軍の大和派遣が決まり、同じころ弥三郎が赦免となったため義就派は不利となり、越智家栄は敗れて没落、光宣らは勢力を回復した。弥三郎は間もなく死去したが、弟の政長が弥三郎派から新たに擁立され、義就との対立が継続された。
 1460年紀伊国で根来寺と畠山軍が合戦を起こし、畠山軍が大敗した。義就は報復のため京都から紀伊へ援軍を派遣したが、幕府から政長に家督を譲るよう命じられ、政長に家督を奪われた上、綸旨による討伐対象に定められたことにより朝敵に貶められた。
 大和国龍田で政長・光宣らに敗れたのち12月に嶽山城に籠城し、討伐に下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と2年以上も戦った(嶽山城の戦い)。
 1463年、成身院光宣の計略により嶽山城は陥落し、義就は紀伊、のち吉野へ逃れた。
 同年、義政生母の日野重子が死去したことに伴い大赦が行われた。義就は細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て、1465年に挙兵。
 1466年、大和から河内に向かい諸城を落とした。大和では義就派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して政長派の成身院光宣らと戦い、十市遠清の仲介で両者は和睦した。
 義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明け渡しを要求し、管領職を辞任させた。
 1467年、両派の軍が上御霊神社において衝突し、義就は宗全や斯波義廉の家臣朝倉孝景の協力を得て政長を破った(御霊合戦)。
  これをきっかけとして、1467年、応仁の乱が勃発。
 義就は宗全率いる西軍に属して政長と戦い、相国寺の戦い、足軽大将骨皮道賢討伐にも参戦。河内・大和・摂津・山城を転戦し、山城を実力支配した。
  1473年、宗全と勝元が死去したのち、東西両軍の和睦が進められる中、義就は講和に反対。
  1477年、政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落、政長派の守護代・遊佐長直を若江城から追い河内を制圧する(若江城の戦い)。
 越智家栄と古市澄胤らも大和を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。
 義就が河内方面に下向後、京では東西両軍の間で講和が成立し、西軍諸将は相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結した。
 その後、名目上の河内守護と畠山氏当主は依然として政長のままであり、河内を実質領国化している義就に対して幕府は度々追討令を発したが効果は無く、河内と大和は義就が実効支配したままであった。
 1482年に幕府の命を受けた細川政元と政長連合軍が義就追討に出陣した。義就は7月16日に政元単独と和睦、政元は河内十七箇所と摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)の交換を条件に自軍を撤退させたが、政長は河内に留まり義就との抗争を継続した。
 義就は河内から山城国南部に侵入、翌1483年に南山城を掌握し、河内の政長方を掃討して河内の実効支配を確立した(犬田城の戦い)。
 ただし、主戦場となった山城では義就・政長の争いも膠着状態となって以降、業を煮やした国人衆により1485年に国人一揆が起こり(山城国一揆)、畠山両軍は撤退を要求されたため義就軍は河内に引き上げた。
 以後も義就に対して幕府から追討令が出されたが、実行されないまま終わった。
 1491年死去。

(2)畠山義豊(基家)

(1469-1499)
義就の子。
子に義英。
1483年、兄の修羅が亡くなり、後継者に定められる。
1491年、父の病没により、家督を継ぐ。
1493年、10代将軍・足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受ける。しかし、明応の政変が勃発。細川政元と同盟した義豊は、逆に畠山政長を自刃に追い込む。
1497年、家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた政長の子・尚順が紀伊で挙兵。義豊は河内高屋城を落とされ山城へ逃亡した。
さらに大和国人である越智家栄・家令父子と古市澄胤が、尚順に呼応した筒井順賢・十市遠治らに敗れて没落。
政元の支持を受けながら、抵抗するも1499年、河内十七箇所で戦死。

(3)畠山義英

(1487-1522)
義豊の子。
子に 義堯、在氏、勝王。
1499年、父が尚順に敗れて自刃したため、家督を継ぐ。
まもなく細川政元が尚順を破ったため、河内へ帰還。
1504年、細川氏からの独立を目論見、尚順と和睦。義英は誉田城、尚順は高屋城の城主となり、河内国を半国ずつ領することになった。
1505年、細川政元の関係が悪化し、政元から赦免された赤沢朝経によって誉田城を攻められる。
1507年、永正の錯乱。細川政元が暗殺される。この期に乗じて、義英は分国を回復。
しかし、畠山尚順との講和が破れ、義英は岳山城に籠城。翌年1508年、尚順や細川高国により、岳山城は陥落する。このとき細川澄元の部将・赤沢長経が尚順らに無断で脱出させる。
畠山尚順が、細川澄元から将軍義稙・細川高国・大内義興一派に鞍替えすると、義英は足利義澄・細川澄元らと結んで尚順との戦いを継続した。
1511年、一時、河内を奪い返すが、足利義澄の急死や、細川澄元が船岡山合戦で細川高国らに敗北する形勢が不利になる。
1513年、尚順に敗北。
1520年、義英は、大和国の越智家全らと共に、畠山稙長(尚順の嫡男)が籠もる高屋城を攻め落とすが、細川高国の軍勢が三好之長方を破った(等持寺の戦い)と聞くや、高屋城から逐電。
1522年、死去。

(4)畠山義堯

義英の子。
1522年、父の死により、家督を継ぐ。
1527年、細川高国が桂川原の戦いで破れる。さらに、川勝寺口の戦い。
1528年、義堯と柳本賢治の軍勢が、畠山稙長の本拠地である河内高屋城を落とし畠山尾州家との戦いを優勢に進めた。
しかし、1530年、細川高国方の浦上村宗が播磨国統一を果たして柳本賢治を討ち摂津国に侵攻すると、義堯の兵は京を追われた。
1531年の大物崩れにおいて、細川晴元の重臣・三好元長と共に戦い、細川高国、浦上村宗を討ち取る。
だが、細川晴元は将軍・義晴との和睦を望み、堺公方の処遇を巡って畠山義堯・三好元長と対立。晴元との関係強化を独自に画策する木沢長政が離反して河内守護代の遊佐堯家を殺してしまう。
1532年、三好元長と連携し、木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲中、長政の支援に現れた一向一揆に敗れて自刃した(飯盛城の戦い)。

(5)畠山在氏

義英の子。
子に尚誠。
1532年、父が自刃した後、木沢長政によって当主に擁立される。
1541年、木沢長政が細川晴元に反旗を翻す。
1542年、長政は幕府軍の追討で戦死し(太平寺の戦い)
在氏は、幕府側との和睦を望むが、1543年に飯盛山城は陥落。
1546年、第二次細川氏綱の乱が起きると、晴元方に帰参。晴元軍の一員として氏綱方の摂津原田城を攻め、同年7月の舎利寺の戦いでは晴元方の勝利に貢献した
1549年、氏綱と結ぶ三好長慶・遊佐長教らの軍勢に敗北し没落。

(6)畠山尚誠

(1531-?)
在氏の子。
1549年、江口の戦いで細川晴元は敗れ、晴元政権は崩壊。
1552年、尚誠は大和国宇智郡に勢力を残していた。
家臣・平誠佑や遊佐家盛と共に河内奪回戦を行おうと目論む。
1565年、永禄の変後、一乗院覚慶(後の足利義昭)からの求めに応じているのを最後に、歴史から姿を消す。

[4]遊佐氏

遊佐氏は出羽国飽海郡遊佐郷の発祥とみられ、藤原秀郷の末流とされる。

(1)金吾家被官・河内守護代家

遊佐国長(-1413)畠山基国・満慶・満家の河内守護代
遊佐国盛()畠山満家・持国の河内守護代
遊佐国政()国盛の子。越中守護代。嘉吉の変後、没落。
遊佐国助(-1460)畠山義就の河内守護代

(2)尾州家被官遊佐氏

遊佐長直(-1493)畠山政長の河内守護代。
遊佐順盛()畠山尚順・稙長の守護代。
遊佐長教(-1551)順盛の子。
遊佐太藤()
遊佐信教()長教の子。

遊佐長直
(-1493)
子に又太郎。
弟に長恒。
長直は神保長誠・成身院光宣らと共に畠山政長を支持して、畠山義就に付いた遊佐国助・遊佐就家と対立した。
1493年、政長とともに自刃。

遊佐順盛
()
子に長教。

遊佐長教
(-1551)
遊佐順盛の子。
子に信教。
守護・畠山稙長が細川晴元と対立する反体制派であったため、晴元方と妥協を図りたい長教は、稙長を紀伊に追放し、弟・畠山長経をは擁立した。
1535年には、その長経も追放し、もう一人の弟・晴熙を家督に擁立。
1538年には弥九郎を擁立、木沢長政と協議し、総州家当主畠山在氏とそれぞれ河内半国守護として並立させ実権を握った。
1541年に晴元に反乱を起こした長政と断絶、弥九郎と在氏を追放し、稙長と和解して再び守護として迎え入れた。
1542年、晴元の家臣・三好長慶らと連合して河内高安郡太平寺で撃破し(太平寺の戦い)、長政を討ち取った。
1545年に稙長が急死。稙長の後継者が分家の能登守護・畠山義総の子に定められるも、稙長の弟・政国を擁立し、これに抵抗。
1546年になると反晴元方として挙兵して、細川氏綱と共に摂津国を転戦した。
1547年、三好長慶の反撃で摂津を奪い返され、舎利寺の戦いで長慶に敗れる。
晴元・三好政長と長慶の対立が明らかになると、長慶と同盟を結ぶ長教に対し、主君の畠山政国は反発し、出家する。
1549年、江口の戦いで三好長慶が政長を討って晴元陣営を崩壊させ、台頭する。
1551年、長教は刺客に暗殺される。萱振賢継の謀反と考えられる。

遊佐太藤
(?ー?)
1551年、河内守護代・遊佐長教が暗殺されたが、長教の嫡子・信教が幼少のため、河内上郡代の萱振賢継は長教の弟を擁立し、下郡代の安見宗房は遊佐一族の太藤を立てて対立。
1552年、安見宗房が萱振賢継らを粛正し、長教の娘を娶り同盟関係にあった三好長慶が長教の弟を殺害することで決着した。
1552年、畠山高政が畠山氏の家督を継ぐ。
1553年、安見宗房と対立した鷹山弘頼が高屋城で自刃。
太藤は1553年までに御供衆に任じられる。遊佐氏の家格は上がり、守護畠山氏を通さず将軍と直接結び付くようになる。
1558年頃には、記録にその名が見えなくなる。

遊佐信教
(1548-)
長教の子。
子に高教。
1551年、父・遊佐長教が暗殺されたが、信教が幼少のため、一族の遊佐太藤が家督を継いだか、代行者となった。
1564年ころ、成人した信教は遊佐氏当主としての活動を行うようになる。
1573年、義昭が織田信長と断交すると、義昭方に付いた信教は秋高を殺害した。
1573年、義昭は京を追放され、信教は同じく反信長派であった三好康長を高屋城に入城させて籠城していた。秋高の内衆である遊佐盛・保田知宗・平三郎左衛門尉らは当初は信教と共に高屋城に留まるも、畠山氏の政敵であった三好康長と結ぶ信教への反発もあったのか、1574年頃に信長方に転じている。
1575年、高屋城は織田軍の攻撃を受け(高屋城の戦い)、降伏した康長は信長の家臣となった。一方の信教は高屋城落城後も本願寺と反信長方として活動していたと考えられる。

(3)総州家被官遊佐氏①遊佐就家家

遊佐就家()畠山義就・基家の守護代
遊佐堯家(-1531)畠山義堯の守護代
遊佐元家()畠山在氏・尚誠に仕える

遊佐就家
()
弾正忠、河内守。
畠山義就、基家に仕える。河内国守護代。
政長方の遊佐長直を討ったのち、河内守を名乗る。

遊佐堯家
(-1531)
弾正左衛門尉。
畠山義堯に仕える。河内国守護代。

遊佐元家
()
弾正忠
畠山在氏・尚誠に仕える。
木沢長政に殺害される。

(4)総州家被官遊佐氏②遊佐盛貞家

遊佐盛貞()(越中守)
遊佐就盛()畠山義英の守護代
遊佐基盛
遊佐英盛
遊佐家盛()(越中守)

遊佐盛貞
()
越中守。

遊佐就盛
()
中務丞、越中守、河内守。
畠山義英に仕える。河内守護代。
就家の跡を継ぎ、河内守に改称した

遊佐基盛
()
孫三郎。

遊佐英盛
()
孫次郎、中務丞。

遊佐家盛
()
越中守。

(5)
・遊佐盛久(豊後守)
・遊佐盛貞

[5]家臣

①「武蔵衆」 畠山重忠以前から仕えていた家柄
 豊島氏、榛沢氏、半沢氏、本田氏。
②「足利衆」 足利義純の畠山氏入嗣の際に従った家臣。
 稲沢氏、斎藤氏、高階氏、伴氏、平氏
③「鎌倉衆」畠山義純以降、畠山家国時代までに召抱えられた家臣。
 佐原氏、庄氏、神保氏、中原氏、遊佐氏。
④国人衆
 安宅氏、色川氏、太田氏、恩智氏、甲斐庄氏、萱振氏、小山氏、誉田氏、周参見氏、鈴木氏、隅田氏、玉置氏、丹下氏、淡輪氏、野長瀬氏、堀内氏、水走氏、湊氏、三宅氏、保田氏、安見氏、湯浅氏、湯川氏、和田氏など。
⑤「大和衆」主に応仁の乱以降に家臣となった大和国の国人衆
 秋山氏、飯田氏、岡氏、奥田氏、越智氏、片岡氏、沢氏、龍田氏、筒井氏、十市氏、豊田氏、箸尾氏、布施氏、芳野氏。

(2)
1392年、相国寺の仏殿が完成した際、基国に従った内衆(家臣団)
遊佐国長(河内守)
遊佐助国(豊後守)
斎藤基則(次郎)
隅田家朝(彦次郎)
遊佐基光(孫太郎)
古山胤貞(次郎)
神保国久(宗三郎)
飯尾清政(善六)
遊佐家国(五郎)
門真国康(小三郎)
三宅家村(四郎)
三宅慶明(次郎)
誉田孫次郎
酒匂国頼(次郎)
斎藤利久(彦五郎)
斎藤国家(四郎)
槇島光基(次郎左衛門尉)
槇島光貞(三郎)
杉原貞平(五郎)
井口奉忠(彦五郎)
斎藤利宗(次郎左衛門尉)
佐脇久隆(孫五郎)
椎名長胤(次郎)
吹田国通(孫太郎)
斎藤利房(孫左衛門尉)
松田秀久(孫左衛門尉)
稲生基宗(平左衛門尉)
和田正友(太郎)
神保氏久(肥前守)
神保国氏(四郎左衛門尉)

(3)畠山金吾家の家臣

斎藤氏
 斎藤基則
 斎藤利久
 斎藤国家
 斎藤利宗
 斎藤利房
平氏
三宅氏
 
三宅家村
 三宅慶明
誉田氏
 金宝
 祥栄()山城国守護代
 就康
甲斐庄氏
 
甲斐庄氏は楠木正成の弟楠木正季の子孫が河内国錦部郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことにはじまる。室町時代に河内守護であった畠山氏に降伏し、その家臣となり、本領安堵された。
 甲斐庄俊正()
 甲斐庄正治()俊正の子。
 甲斐庄正房()
玉置氏
 玉置氏は、大和国吉野郡から紀伊国鶴ヶ城を拠点とした山地玉置氏と、日高川を下り手取城を拠点とした和佐玉置氏がある。
 盛辰
丹下氏

 丹下氏は河内国丹南郡丹下を本拠とする国人。
水走氏
 
水走氏は河内国一ノ宮の枚岡神社や大津神社を管掌した神官で中臣氏と同流の枚岡神社の主神の天児屋根命を祖とする平岡連の末裔に当たる。
平安時代後期に枚岡神社の神職であった平岡連の一族から水走氏が分派し、枚岡神社の社領や大江御厨を守る武士団へと成長していった。鎌倉幕府の滅亡の際には、当主の水走康政は反幕府の挙兵をした楠木正成に同心するが、足利尊氏には与せず、楠木正成が敗死後も楠木正行に味方するなどしたため高師直らの攻撃を受けて降伏した。その後は、畠山氏に仕え、その没落と共に自らも没落した。
淡輪氏
 淡輪氏は和泉国淡輪荘の国人。紀州と大坂との海運交通を抑える海賊衆として知られていた。もともとは畠山氏に仕えていたが、その没落により、1573年には織田信長に属した。
 重昌
和泉和田氏
和田氏(みきたし)は和泉国大鳥郡和田郷を本貫とした武家の氏族。
木沢氏
 助久
木沢氏
 秀久
 浮泛(総州家)秀久の子。
 長政(総州家)浮泛の子。
太田氏

[2]紀伊の国人→詳細は紀伊編へ

鈴木氏
 
雑賀衆の氏族。
湊氏
 
雑賀衆の氏族。
堀内氏
 
熊野水軍の一。
安宅氏
 安宅氏は紀伊国牟婁郡安宅荘を拠点とした国人。熊野水軍の一。熊野の水軍たちが鎌倉幕府に対して度々蜂起したので鎮圧のため軍が差し向けられた中に、祖である安宅頼春がいた。1350年6月、安宅氏は足利義詮に淡路国沼島周辺の海賊退治を命じられ阿波国竹原荘内本郷の地頭職を安堵された。同年9月には阿波国守護・細川頼春から安宅頼藤に阿波国牛牧荘の地頭職が、1352年12月には、安宅王杉丸(頼藤の子の近俊か)が阿波国萱島荘の地頭職を与えられている。こうして紀伊安宅氏から、淡路安宅氏、阿波安宅氏が別れた。
色川氏
 紀伊国色川に拠点を置く豪族。熊野水軍の一。
久木小山氏
 
熊野水軍の一
野長瀬氏
 
野長瀬氏は源義家の四男・源義忠より河内源太経国(源経国)、稲沢小源太盛経(源盛経)を経て盛経の子の経忠が初めて野長瀬孫太郎を名乗り野長瀬氏を称したという。経忠の子の頼忠が野長瀬庄司六郎と号し、頼忠が近露野長瀬氏の初代になったという(紀伊国近露)。
 赤坂城の戦いに敗れた大塔宮護良親王が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき、野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡が軍勢を率いて援けた。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後は横矢氏も称するようになった。野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた。その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続した。
保田氏
 保田氏は紀伊国有田郡保田庄を本拠とする国人。
湯浅氏
周参見氏

湯河氏
 湯河氏は甲斐源氏武田氏を祖とし、支流・奈古氏の出身で紀伊国湯川を本拠としたことにはじまる。
隅田氏
 
紀伊国伊都郡隅田荘に拠点を置く豪族。

(4)遊佐氏被官

走井氏(遊佐氏被官)
 盛秀
 慶秀
田河氏(遊佐氏被官)
 田河能忠
菱木氏(遊佐氏被官)
吉益氏(遊佐氏被官)
 匡弼
 高秀
 匡明
萱振氏(遊佐氏被官)
鷹山氏(遊佐氏被官)
 弘頼
安見氏(遊佐氏被官)
 宗房
恩智氏
 
親継
草部氏
中小路氏
行松氏
野尻氏

 宗泰
 実堯
土屋氏
 宗仲
三箇氏
 
頼照

(5)畠山尾州家の家臣

走井盛秀
安見宗房
()
鷹山弘頼
丹下盛賢
(-1545)
畠山尚順、稙長に仕える。
平盛知(丹下盛知)
三宝院快敏
()
稙長・政国に仕える。
紀伊の有力国人である隅田氏の出身。紀伊国伊都郡の郡代。
保田知宗
(-1583)
 長宗の子。守護家畠山氏の内衆。紀伊国八幡山城主。
畠山秋高、後に織田信長に仕える。
萱振賢継
吉益匡弼
田川純忠
稲沢貞種
神保春茂
伴 高兼
中条盛忠
三宅国村
臼井定阿


(6)畠山総州家の家臣

木沢長政
(1493-1542)
畠山義堯、在氏に仕える。
河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。
守護代・遊佐堯家遊を殺害したことにより出奔し、細川高国の被官となるが、1530年頃に、細川晴元へ接近し、その被官となった。
1531年、高国による摂津侵攻の際には、当初は高国軍との対決を危険視してか一時的に姿を消す。ところが、晴元ら堺公方派の勝利が確定した頃になると再び姿を現し、高国方の要人である細川尹賢を捕縛し、切腹させている。
 高国が死ぬと、堺公方派の中心であるはずの細川晴元が将軍・義晴との和睦を望み、堺公方の処遇を巡って畠山義堯・三好元長と対立。
 長政は晴元に接近するが、これを危険視する義堯と元長の結束を招いてしまう。義堯と元長からは居城の飯盛山城を攻撃され劣勢であった。しかし、長政は、三好氏一門の中で元長を敵視する三好政長と共謀、讒言によって晴元と元長を離間させる。晴元の要請により蜂起した一向一揆の来援を得て、義堯・元長を撃退。(飯盛城の戦い)。義堯・元長を自害に追い込み、堺公方を消滅させる。
 しかし、一向一揆軍はそのまま大和へ転進し、新たな騒乱を巻き起こしてしまう(天文の錯乱)。そのため、将軍義晴の下で管領となった晴元、管領代茨木長隆の命令を受けて、長政はその対応と鎮圧に追われることになる。 そこで今度は一向一揆と対立する法華一揆と結び、その力で一向一揆を追討した。一向一揆の勢力を弱めることに成功すると、今度は法華一揆が邪魔になったため、1536年これを打倒した(天文法華の乱)。
 その後、一向宗との関係修復に努めた。
 1534年には元長の遺児である三好長慶と晴元の仲介も果たし長慶を晴元の家臣に組み入れた。また、この時期、細川晴元が山城守護の任にあったが、上三郡(南山城)守護代として他家の家臣である長政を任じている。
 このころ、長政は総州家の当主・畠山在氏を傀儡としていたが、尾州家の勢力は健在だった。尾州家の主は畠山稙長であったが、晴元への対抗として本願寺と同盟したことが発覚すると、長政は尾州家重臣の遊佐長教らと結託して稙長を紀伊に追放した。当初は稙長の弟・畠山長経を傀儡として擁立したが、晴元の干渉もあって長経は廃され、もう1人の弟晴熙が家督代行として長教に擁立されたが、これは幕府からは認められなかった。やがて1538年に畠山弥九郎と畠山在氏をそれぞれ尾州家・総州家から擁立し、尾州家と総州家の共同統治という形式を採ることにより、長政は長教と共に畠山氏の実権を握ることになる。
 大和への野心を持ち、河内と大和の双方に通じる拠点として信貴山城や二上山城を築城。1537年より筒井氏と結び、越智氏を圧して大和を掌握するようになる。また、大和国内で大きな権限と影響力を有していた興福寺や春日社などの寺社とも、関係性を深めていった。
 だが、畿内では新たに三好長慶や摂津の有力国人である池田信正(久宗)が台頭する。
 1541年には、旧高国党とみなされた一庫城の塩川政年の処遇を巡って晴元や長慶と対立、摂津の有力国人である伊丹親興や三宅国村を味方につけこれに抵抗した。1一庫城への救援に向かい包囲していた長慶と信正を敗走させ、信正の原田城を攻撃、さらに京都へ進軍して将軍義晴を擁立しようと画策するが、義晴には近江坂本へ逃れられてしまい、晴元も京都郊外の岩倉へ退避、長政は幕府に背いた逆賊となってしまう。しかも、晴元と和睦した政年や国村の離反によって孤立していった。
 1542年には河内高屋城で長教との関係を修復した稙長が当主に復帰。木沢派の家臣が粛清され弥九郎が追放。
 長政に従うのは、柳生家厳などかつての総州家の被官を中心とする大和国人衆の一部のみであった。高屋城の再奪取を図るも失敗し、幕府の追討軍と河内太平寺で戦うが、細川・三好・遊佐連合軍に敗れ討ち死にした(太平寺の戦い)。

斎藤宗時

平誠佑


[6]楠木氏


楠木正成
楠木正行(-1348)
楠木正儀
楠木正勝
楠木正顕
楠木正重

(2)楠木正行(まさつら)

(-1348)
正成の嫡男。尊称:小楠公
楠木氏棟梁。
1340年、南朝の河内守・河内守護として河内国を統治した。
1347年、初陣から連戦連勝。「藤井寺・教興寺の戦い」で大勝。
住吉・天王寺の戦いで細川顕氏・山名時氏を破る。
1348年、四條畷の戦いで高師直・師泰の軍と戦い、討ち死。

(3)楠木正儀

(-1388?)
正成の三男。
子に正勝、正元、正秀、正澄、正平。
楠木氏棟梁。
1336年、湊川の戦いで父を失う。
1348年、四條畷の戦いで兄の正行、正時が戦死。
同年、南朝の首都・吉野行宮が陥落。
1350年、観応の擾乱。将軍足利尊氏の弟・直義が南朝方に付く
1351年、正平の一統が成立した。
1352年、尊氏が関東遠征中の隙を狙い、旧南朝方、正儀・和田正武・伊勢国司北畠顕能らが京都を制圧(第一次京都攻防戦)。

1354年、南朝の事実上の最高指導者・北畠親房が世を去る。
後村上天皇は足利直冬を主将、正儀を副将として、3回目の京都奪回を試みる(第三次京都攻防戦、神南の戦い)が、奪回は短期間で終わった。

[7]城郭・地理

高屋城
古市郡(平山城)
文明 - 明応年間(1469年 - 1501年)には畠山義就が築いた。
畠山氏の本拠地となる。
1506年、赤沢朝経が高屋城を落城させる。
1558年、安見宗房が守護の畠山高政を追放。
1559年、三好長慶が攻略。畠山高政を城主に復帰させる。
1560年、三好長慶が再び高屋城を攻略し、高政・宗房を追放。弟の三好実休を高屋城に据えた。
1561年、高政が高屋城を奪回。
1562年、高政が教興寺の戦いで敗れ,長慶の甥・三好義継が城主となった。
1565年、畠山秋高が河内半国守護となり、高屋城に入城する
1573年、遊佐信教が畠山秋高を殺害し、三好康長が高屋城に入城
1575年、織田信長軍が高屋城を攻城、三好康長が降伏。廃城となる。
若江城
若江郡(平城)
1382年に河内守護となった畠山基国の命で築城された。守護代遊佐氏が歴代城主となった。西方1.5kmほどに大和川本流(現在の長瀬川)があり、東方1.5kmほどに大和川支流玉串川があり、2つの大河が東西の天然の外堀、玉串川が別れ、菱江川となって大和川本流と合流しており、これが北の外堀となる。
飯盛山城
(木沢長政
安見宗房
三好長慶)

讃良郡(山城)
畠山義堯が河内を支配するようになると、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えた。

烏帽子方城(押子形城)
(山城)
楠木正成が築城した楠木七城のひとつで、上赤坂城の支城

田原城
交野城(私部城)
交野郡(平城)永禄期(1558 - 1570年)に築城。
三箇城
津田城(国見山城)
交野郡(山城)1490年、津田正信により築かれた。
野田城
岡山城
田原城
野崎城
小阪城
千早城
上赤坂城
下赤坂城

(2)地理

生駒山地
大阪平野と京都盆地・奈良盆地とを隔てる丘陵性の山地で、河内国と山城国・大和国との国境である。


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