短編ホラー「足音」

 これは私が大学生だった頃に経験した話です。当時私はカラオケ店でバイトをしていました。
 その日は7月上旬で、大学生は夏休みに入っていて、しかし中高生はまだ授業期間という、そんな時期でした。中高生がいないとカラオケ店の平日というのは、おじいちゃんおばあちゃんの溜まり場になります。学生の相手よりも楽なんじゃないかと思われるかもしれませんが、何せ彼らは機械に弱く、曲を入れるタッチパネルであったり、冷房を入れるリモコンさえも扱えず、たびたびフロントに電話を入れてきます。 
 そして、私がフロントに立っていた時にも一本の電話が入りました。
「はい、どうされました?」
『あのー、リモコンの操作が分からなくて、それに、何ていうか』
 おばあちゃんの声でした。
「では、すぐに伺いますね」
 こういう場合は電話越しに伝えるよりも、直接教えた方が早いというのが私の経験則です。
 コンコン。ノックをして入ると、案の定、カラオケのリモコンをたどたどしく触るおばあちゃんがいました。そして隣のソファには、気持ちよさそうに歌うおじいちゃんもいました。
「失礼します」
 おじいちゃんの演歌が響く中、私はさっそく操作方法を教えました。どうやら、音量調節がしたかったようです。
「ありがとう」
 おばあちゃんは笑顔でそう言ってくれました。
 それでは、と立ち上がってフロントに戻ろうとします。
「あと、おにいさん」
 おばあちゃんはまた困ったような顔になり、私を引き止めます。 
「どうされました?」
「あのね、歌ってるとしょっちゅう、ドンドンドンドン、ドンドンドンドン、って、上の階から足音がするんよ。もう、歌がかき消されるくらいの大きな音で、ドンドンって、うるさくてうるさくて」
 確かに、うちは2階建てになっているので、上の階で猛烈に騒ぐと下にも影響することがあります。
 おばあちゃんは続けました。
「いったいどんな若者が騒いでるんか知らんけど、おにいさんちょっと注意してきてくれる? これじゃ楽しめんわ」
「わかりました……」
 正直、そういう輩のような人たちを対処するのは苦手で、私はげんなりしました。きっと大勢の大学生か、学校をサボった中高生がバカ騒ぎをしてるのだろうと思いました。
 失礼します、と退室して、できれば他の人に任せようと思いました。
 スタッフルームで事情を話します。すると、バイトリーダーが期待に反してこう言いました。
「それは君が行こう。注意した後おばあちゃんに説明せなあかんし、君が最後まで対処した方がスムーズやろ。頑張ってみよう」
 私は観念しました。
「わかりました」
 気が進まないまま階段を上がり、そのおばあちゃんの真上にあたる部屋を睨みます。
 強気で注意しなければ、と意気込んで、いったいどんな奴らがいるんだと思いながら進み、扉をノックしました。
 コンコン。「失礼します」
 部屋は真っ暗で、中には誰もいません。音も一切聞こえません。暗闇に目を凝らすと、段ボールが積まれているのが見えます。あとは、使われていないテレビとソファーがあるだけ。
 不思議に思いながら、失礼します、と扉を閉めました。
 トン、と肩を叩かれました。
 ビックリして振り返ると、さっきのおばあちゃんでした。満面の笑みで。
「どうやった?」
 私は急いで扉を隠しながら。
「いけましたよ。僕が注意したら、ほら、こんなに静かになりました」
 とっさに嘘を付きました。部屋を間違えたかも、なんて言えば、このおばあちゃんはどこまでも付いてきそうです。
「ほんならよかったわ。あんた気弱そうやし、大丈夫かな思て」
 おばあちゃんは笑いました。
「そら、大丈夫でしたよ。なので、お部屋でお楽しみください。これで静かになると思います」
 階段を降りていくおばあちゃんを見送ってから、私は後ろの廊下に向き直りました。どこか別の部屋で騒いでいるんだろうか。それにしてはどこもシーンとしていて、やはり静か過ぎます。
 私は急いでフロントに戻り、建物全体の案内図を見ながら、おばあちゃんの部屋の真上はどこだろうと念入りに調べました。でもやはり、あの部屋に違いありません。
「どうやった?」
 振り返ると、バイトリーダーがいました。
「いやそれが、誰もいなかったんですよ。ここが、おばあちゃんの部屋で、その真上に行ったんですけど」
「え、ちょっと待って」
 バイトリーダーは困惑した表情で案内図を指差します。
「二階の左側って、全部倉庫やで」
 ゾッとしました。
 うちのカラオケ店は、フロント部分を中央に、右側と左側に分かれていて、おばあちゃんの部屋は左側です。その上となると、二階の左側のどこかなのですが、全て倉庫だというのです。人がいるはずがありません。部屋を間違えたわけではなかったのです。
「とりあえず、もう一回事情聞いてきます」
 おばあちゃんの勘違いであってくれと願いながら立ち去ろうとしました。
 するとバイトリーダーは。
「あ、怖がらせないためにも、そのおばあちゃんにはうまいこと言うといてや」
「わかりました」
 再びおばあちゃんの部屋に行って、コンコンとノックをしてから、失礼しますと中に入ります。相変わらず、おじいちゃんは気持ちよさそうに歌っていました。
 おばあちゃんはソファーから。
「どうやった?」
 私は精一杯の笑みを浮かべて。
「とりあえず、静かになったみたいですね」
「いやいや、何言うてんのおにいさん、今もめちゃくちゃうるさいやんか」
「え?」
 私は恐る恐る上を見ました。そこには、派手な赤い天井があるだけで、聞こえるのはおじいちゃんの演歌だけです。何もうるさくありません。
 すると、私たちの会話が邪魔だったのか、おじいちゃんは歌をやめました。よりいっそう耳を澄ませてしばらく待ってみましたが、静かなカラオケメロディーが虚しく流れるだけで、足音なんて聞こえません。
「ほら、今もドンドンドンドン、ドンドンドンドンって、やかましくてかなんわ」
 おばあちゃんは耳を塞ぎました。
 するとおじいちゃんが怒声を上げて。
「だから言うとるやろ! 何も聞こえへんって」
 おばあちゃんも負けじと。
「いや聞こえるわ。こんなんカラオケできんて」
 私は演歌のメロディーが終わるまで立ち尽くしていましたが、耳に入るのはおじいちゃんとおばあちゃんの言い争いだけです。そのような音は一切聞こえません。私はいよいよ訳が分からなくなって、失礼しますと逃げてきました。
 あのおばあちゃんには、一体何の音が聞いていたのでしょうか。一体誰の足音が、ドンドンドンドンと響いていたのでしょうか。
 私の報告を受けて、バイトリーダーは言いました。
「こわ〜。霊もカラオケするんかな」

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