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生きることをつまらなく苦しくする〇〇を手放そう
先日、合唱団の有志メンバーで集まり、一日かけてブラームスの合唱交響曲ドイツ・レクイエムを練習しました。
合唱練習は基本好きなんですが、その日はなんだか調子が悪く、思ったように歌えず、反省点ばかりが目立って、あまり楽しめませんでした。
ところが、メンバーの中に、ちゃんと歌えていたよと言ってくれる人がいて、そういう見方もあるなと気づきました。
先日、自分を愛することに関する記事を書いたこともあって、ちょっと不思議に思ったんです。
意識の仕方によっては、上達している部分に目を向けて、もっと楽しく一日を過ごすこともできたはず。なのに、ずっと苦しい時間を過ごしてしまったのはなぜなんだろうと問いかけたら、ほどなく答えがやってきました。
たしかに、「それ」があると、趣味など楽しいはずのことが苦しくなったり、もともと嫌な仕事などはさらにつらくなったりするかもしれません。
さて、「それ」とは一体なんでしょう?ちょっとだけ、考えてみてください。
何か思いつきましたか?
「それ」とは、期待です。自分に対する期待、人からの期待、その両方です。
意外に思った人もいるかもしれません。
今の社会では、期待はけっこうポジティブに捉えられているからです。
例えば、尊敬する上司から「君には期待している」と言われれば、うれしい気持ちになる人は多いでしょう。 「期待の新人」なんて言う言葉もありますね。
実際、期待を裏切らないよう頑張れたり、期待に応えられた場合は誇らしくうれしく感じるなど、メリットがあるのはたしかでしょう。
しかし、一方で期待を重荷に感じることもあろうかと思います。期待に応えることができず、自分を責めたりイヤになってしまうこともあるでしょう。
このように期待には よい点、悪い点、両方ありますが、本質という観点からは、実のところ、期待とはなるべく距離を置くに越したことは ありません。
他人から期待されるにせよ、自分に期待するにせよ、そこには 未来における一定の結果、到達点が想定されています。
結果がそこに届いたかどうかで、期待に応えたか、期待に及ばなかったかが決まるわけです。一定のラインが引かれ、そこに届かなければ未達成 になります。
そうなると、結果主義や結果が全てという考え方に寄りがちです。失敗するたびごとに、こんなはずではなかった、もっと上手くできるはずなのに、と減点主義で自分を責める思いが湧いてきます。
途中のプロセスにあるはずのちょっとした喜びや、期待を下回るにせよいくらかは成し遂げた成長をないことにしがちなのです。
また、未来の結果に意識が持っていかれる分、今がおろそかになります。 今を味わうことができない他、今に注ぐエネルギーが不足する分、パフォーマンスも落ちてしまいます。これでは悪循環です。
期待が唯一機能する前提条件。それは期待される側が、 期待を裏切ったとしても相手の愛や信頼に変わりがないと確信している場合に限ります。
これは上司や親からの期待にしても、自分自身からの期待にしても、よほど自己肯定感の強い人でないと難しいでしょう。
とすると、やはり期待とは距離を置いて生きていくのが、いらぬ苦しみから解放される上では大切になりそうです。
もちろん、期待に応えられるか否か、そのドキドキハラハラがいいんだよ、というスリルを好む人は、そのゲームを楽しんでください。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。