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「音を聴く」ために

ピアノのレッスンの際に

「もっと自分の音を聴いて」

と言われた経験はないだろうか。私はよーく言われた。子供の頃は(聴いてるけどな..)と思っていたが、今振り返ると、いやいや全然聞けてなどいなかった、と思う。今回の記事では

・「音」について
・「音」が聴けないということ
・なぜ「音」が聴けないのか
・「音」を聴くためのアイデア

などについて考えてみる。

「音」について

「音」というのは空気の震えだ。大気のあるこの地球上では、物体の震えが空気の波として伝わり、人間の耳の中でなんやかんやあって「音を聞く」ことができる。
改めて、物の「震え」が周りに伝播していくという現象、またその「震え」でメッセージを伝え合うという営みは、とてもドラマチックなものに感じられる。

いきなり余談だが、赤ちゃんは胎児の頃から耳が聞こえているそうだ。赤ちゃんはお腹の中で母親の「音」を聞くし、外の様々な「音」を聞いている。産まれてすぐ、まだ視界がぼんやりした中でも話しかける両親の方を見つめるのは、両親の「音」をお腹の中でずっと聞いてきたからだろう。
人間は、視覚よりも「音=震え」を感知する聴覚が先に発達する。
日常を過ごしていると、「耳」より「目」が重宝されることが多いような気がするが、「耳」という長い付き合いのある器官のことをもっと大切にしてもいいのかもしれないと思ったりもする。(実際、「耳」という器官は私たちの実感以上に様々な役割を果たしている)

つい忘れてしまう、「音」を聴くこと

ただ、そのような「音」をめぐるドラマチックな現象や営みも、真面目にピアノに取り組んでいるとつい忘れてしまうことがある。
ピアノを弾くのは大変だ。たくさんの音符を読み、1cm幅の鍵盤を間違えなく弾いていくというのはとても大変なことだと思う。そしてこの大変さが、「音」を聴くこと、空気の震えとしての「音」の存在を忘れさせてしまう。せっかく楽器を弾いているのに、「音」として楽しめないというのはやはりもったいない。

「楽譜と鍵盤の世界」に囚われる

では「音」を聴くことを忘れてピアノに向かっている時、その人は一体何に夢中になっているのだろうか。私は「楽譜」そして「鍵盤」というシステムが、「音」を忘れる要因になる場合があると考えている。
何度もしつこくて申し訳ないが、音というのは空気の震えであり、音楽というのはその震えでもって何かを表現するものだ。しかし、実際にピアノ(特にクラシックピアノ)に取り組む際に意識を向ける「楽譜」というものは記号の連続であり、「鍵盤」は人為的に区切られたスペースだ。「楽譜」「鍵盤」というシステムに囚われるあまり

「この記号はドと読み、鍵盤のスペースはここ」

といった、「記号とスペースを結びつける手続き」に終始してしまうことが、「音」という現象の本来のあり方を忘れさせてしまうのではないか。つまり「楽譜と鍵盤の世界」に囚われて実際の音が聞けないということだ。
これはあくまで自分自身の経験と、日々レッスンをする中で感じたことにすぎないが、ピアノに取り組んだことがある人には思い当たる節があるのではないだろうか。


本文では「記号とスペースを結びつける手続き」としてのピアノ演奏のネガティブな側面を強調しているが、ポジティブな側面もあると考えている。
ピアノは音が多い。そのたくさんの音を正しく読み、正確に演奏していくということにはある種の「ゲーム性」があり、それはむしろピアノという楽器の大きな楽しみの1つであると考えている。個人的にも、音符だらけで真っ黒な楽譜を読む際には、まさにゲームを攻略しているような感覚があり、とても楽しい。(「いや無理ゲーじゃん」と投げ出したくなることもあるが)
ただ、
「それだけでは勿体無いのでは?」
ということだ。


「音」を取り戻せ!!

「楽譜や鍵盤に囚われる」ことが、音を聴くことを忘れさせてしまうのではないか。もしそうであるならば、どうしたら「音」としての認識を取り戻すことができるのだろう。
以下3つの提案をしてみる。

1. 聴く余裕を作る

笑ってしまうようなくらい当たり前のことだが、「音」であることを感じるためには「聴く」ことが必要だ。
とはいえ「楽譜」「鍵盤」を意識することに加えて、「それがどんな音になっているのか」ということにも意識を向けるというのは難しいことだ。なかなか音を聞く余裕がないという時には、演奏のハードルを下げて余裕をもてるようにすると良いのかもしれない。(部分だけ取り出すとか、ゆっくり弾いてみるとか)
弾くことに慣れてくると、高かったハードルも下がってくる。そうすると、聴ける音も増えてくるだろうし、聴き方も柔軟になってくる。

2. 「体」に意識を向ける

楽譜を読み、鍵盤を認識しているのが「脳」であるとすれば、「音」という物理現象に実際に関与しているのは「体」だ。体をどう使うかということは、どんな音が鳴るのかということに直結する。体の使い方に意識を向けてあげると、その結果としての「音」にも必然的に意識が向くのではないか。
楽譜を読み、鍵盤を探すことで頭でっかちになりすぎず、「体と音の関係」にも意識を向けられるといいのかもしれない。

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3. 「楽譜」と「演奏」の違いを認識する

「音符」と「音」は違うものだ。「音符」は点で書かれるが、「音」は点ではない。
「楽譜」と「演奏」も違うものだ。「楽譜」は点(音符)の連続だが、「演奏」には点などなく、時間の流れに沿って切れ目なく続いていくものだ。

楽譜は点の連続(=点ごとに切れ目がある
演奏は流れ(=切れ目がない

なので、その「演奏の流れ」に意識を向けることは、「切れ目なく流れる時間」「流れる時間に沿った音のあり方」に意識を向けることにつながる。
音楽を「楽譜に書かれた点の連続」ではなく「演奏によって変容する音の流れ」として捉えてみると、実際の「音」にも耳が開けてくるはずだ。

まとめ

ここまで、「音」という現象について、そして「音を聴く」ことについて考えてきた。
楽器を演奏しているにも関わらず「音が聴けていない」という状態があるというのは改めて不思議なことだなと思うが、私自身にも、まだ聴ききれていない、味わいきれていない音がきっとまだまだある。(聴けていないからわからないけど)
とはいえピアノを弾きながら様々な「音」が聴こえるようになっていくことはとても楽しいことだ。譜読みに疲れた時には、「今どんな音が鳴っているんだろうか」ということを立ち止まってじっくり聴いてみてはいかがだろうか。

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