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鬼の面
三河の国、いまの愛知県岡崎市に伝わるお話です。
家康公がお住まいになった岡崎城から北に離れた山に、滝山寺というお寺があります。
ここには八百年つづく「鬼祭り」という祭りが伝わっています。
もともとは、源頼朝公の祈願から始まったそうです。
この鬼祭りには、三人の鬼が登場します。
鬼を務める人たちは、鬼の面を被るのです。
そのひとつひとつの面には、それぞれ名前がついています。
「祖父面」、「祖母面」、「孫面」と云うのです。
そしてかつては「父面」「母面」という面もありました。
が、ある出来事のために失われてしまったのです。
江戸時代のこと。
ある二人の旅の僧が、この滝山寺を訪れました。
季節は旧正月、ちょうどこの鬼祭りが始まる頃でした。
この二人は、祭りの鬼の役目に加わることになりました。
鬼の面を被る者たちは祭りでは、冠面者(かんめんじゃ)と呼ばれます。
そして、祭りまでの七日間、常に別室で寝起きし、女に触れず、肉食を絶たねばなりません。
加えて常に斎戒沐浴し、心身を清めねばならないのです。
が、この二人の僧は、これらの掟を守りませんでした。
鬼を務めるあとの三人が咎めると、僧たちは、
「われわれは仏門の者。だいじょうぶ、大丈夫」
と、云いました。
やがて、火祭りの日になりました。
昼過ぎ、巨大な松明を持った十二人の男たちが行列を組みました。
行列は、寺の三門から出発し、遠く離れた本堂に向かいました。
本堂へ到着すると、十二人の男たちは精進料理のもてなしをうけました。
そして日が暮れる夕刻には、本堂で豆まきが行われました。
夜になりました。
とつぜん、本堂の半鐘が打ち鳴らされました。
つづいて太鼓が連打され、ほら貝が鳴りました。
火祭りの始まりの合図でした。
巨大な松明を抱えた男達と、冠面者の五人の鬼たちが現れました。
松明には、いずれも大きな炎が上がっています。
男たちはその松明を振り回しながら、本堂の外陣と回廊を駆け巡りました。
ときにはそれで欄干を叩いたりしています。
そのたびに、ぱぁッと火の粉が飛びました。
見ている人々の間から、どよめき声が上がります。
寺はまるで、みずから炎を噴き上げているようでした。
五人の鬼たちはその中を乱舞します。
炎の熱と人々の興奮のなか、拍子木が鳴り響きました。
それを合図に鬼たちの姿は隠れ、火が消されました。
やがて寺に、夜の静寂が戻りました。
祭りは、終わりました。
汗だくで、二人の僧は控えの部屋に戻りました。
「終わったなぁ」
と言い合い、鬼の面のヒモをほどき、顔から外そうとしました。
が、面は取れませんでした。
鬼の面は、ピッタリと顔に張り付いています。
ふたりは指をひっかけて剥がそうとしました。
取れません。
汗で貼り付いてしまったのかと思い、二人は衣装を先に脱ぎました。
ほてった身体が冷めるのを待って再び指をかけてみました。
しかし、面は取れません。
「だれか来てくれ」
二人はくぐもった声で叫びました。
なにごとか、と寺の僧侶や村人たちが集まりました。
鬼の面を被った二人の僧は、身体を折り曲げながら面と顔の隙間に指を引っ掛けようとしています。
そこに人々も加勢しました。
しかしどうしても、面は取れません。
やがて、二人の息が荒く、途切れ途切れになってきました。
鎌倉時代の運慶が作った、と伝えられている二つの面は、少しずつ、少しずつ二人の顔の皮膚を押してくるのです。
鼻の穴や、唇の隙間が塞がれてきます。
二人は面を掻きむしりながら畳の上を転がりました。
誰かが「祟りだ」と呟きました。
鬼の面を付けたまま、僧たちは死にました。
人々はそのまま、寺の一画に二人を葬りました。
その場所は「鬼塚」と呼ばれました。
この令和のいまでも、鬼祭りは続いています。
鬼が乱舞する火祭りの前には、豆まきと合わせて必ず、鬼塚での供養が行われます。
二つの鬼の面は、いま、土の中にあるのです。(了)