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安珍と清姫『雨月物語』

今は、むかし。
平安の世の時の話。
紀伊の国熊野に向かって旅している、二人の僧がいた。
ひとりは年老いた僧。
もうひとりは、若い少年のような僧であった。
すれちがった人々はみな振り返って、彼の後ろ姿を見送った。
涼やかな、切れ長の目元。
女のように細く整った鼻。
咲きかけた蕾のように薄く開いた唇。
少年の名は、安珍と云った。

牟呂(むろ)という所まで来た二人は、ある家に一夜の宿を求めた。
そこの主は、若い女であった。
ほかに、その女の世話をする召使の女たちが居た。
二人は女たちから手厚いもてなしを受けた。
主の女は、先年夫と死に別れたと語った。
夜もふけたので、二人の僧は別々の部屋で床に就いた。

真夜中。
安珍は、ふと何かの気配に目を覚ました。
床の中に入って来た者がいる。
衣擦れの音。
鼻をつく香の香り。
安珍の顔の横に女の顔があった。
「安珍さま。
 あなたさまが初めての方です。
 この家にお泊まりになる方は。
 どうぞ、このわたくしの想いを
 汲んで下さりませ」

主の女であった。
囁き声と吐息が安珍の耳に絡みついた。
とろけるように甘かった。
少年は夢中で女を押しのけて跳ね起きた。
そして云った。
自分は、修行の身である。
熊野権現への参拝中である。
ここで願を破るわけにはゆかない、と。
女は、身悶えして乱れた。
安珍は必死に、熊野に参ったその帰りに必ずまたここに来る、と云った。
女は身を落ち着けると、こう云って安珍の部屋を出た。
「約束ですね」

それから何日も何日も、女は安珍を待った。
安珍が去り際に女に告げた、約束の日も過ぎた。
それでも安珍は戻らなかった。
ついに女は街道を歩き、とある旅人に安珍と老僧のことを尋ねた。
その旅人は、熊野から来た僧だった。
僧は、その二人ならもう二・三日前に帰った、と云った。
二人は熊野参りのあと、女を怖れて別の道を通って逃げてしまっていた。

女は、家に帰った。
そして、ひとり部屋の戸を閉め切って中にこもった。
そうして何日も過ぎた。
物音ひとつ、しなかった。
ある日、召使いの女たちは、恐る恐る主の部屋の戸を開けてみた。

女は、死んでいた。

召使いたちの泣き叫ぶ声が、家の中に響いた。
その女たちの目の前で、主の屍はみるみるうちに白い肌が緑色のウロコに覆われた。
髪が抜けた。
口が耳元まで裂けた。
泣き声は悲鳴に変わった。
主の女は、巨大な蛇となった。
そして蛇は猛然と家を飛び出すと、安珍を追って熊野の街道を走った。
安珍と老僧はこれを知ると、道成寺という寺に逃げ込んだ。
道成寺の僧たちは寺の門を閉じ鐘楼の鐘を下ろすと、安珍をその中に隠した。
門が破られた。
竜のような蛇が入って来た。
そして安珍が隠れる鐘に巻きついた。
蛇の女のウロコは橙色に燃え上がった。
蛇の尾の先が何度も鐘の竜頭を叩いた。
鐘は、焼き尽くされた。

やがて蛇は、トグロを解いて去って行った。
血の涙を流しながら。
蛇は川にたどり着くと、そのまま身を沈めた。

安珍は、骨までも焼かれた。
あとに残ったのは、ただ一握の灰であった。

(了)

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