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耳なし芳一

(小泉八雲『怪談』)

昔 むかし 
今から一千年ほど前
下関がかつて赤間ヶ関と
よばれていたころ

都を追われた平家一門は
ここ赤間ヶ関壇ノ浦に於て
源氏との最後の戦いに挑みました
敗れた平家の人々は
ことごとく海の底に沈みました
女子共に至るまで
みずから身を投げたと言います

これからお話しするのは
それから数百年後にあった話です
この赤間ヶ関に
阿弥陀寺というお寺がありました 
そこに一人の若い僧がいました
名を芳一と云いました

芳一は目が見えませんでしたが
琵琶の弾き語りの名手でありました
特に源平の語りに於ては
その音色を聴いて涙せぬ者は無く
鬼神の心も溶かすわざであろうと 
人々は胸中でつぶやきました

ある夏の夜のこと

阿弥陀寺の和尚さんは寺男たちと
村の法事に出かけました
芳一はお寺にひとり残り
縁側で琵琶の稽古をしておりました 
そこへ
「芳一」
と野太い声が響きました

「芳一」
「は はい」
「芳一 
長い間ぬしを探しておったぞ
わしはさる高貴な方の使いじゃ
我が殿は
かねてからそちの琵琶を聴いてみたいと
強くご所望でこの近くの館に
来ておられる」
「わたくしを」
「さよう
ついて参れ」

芳一は琵琶を抱えて
カチャッカチャッと鳴る音の後を
ついて行きました 
どうやら声の主は大きな体つきの
鎧武者のようでした

しばらく行くとギギッと何かがきしむ
音がしました
大きな門をくぐり広い庭を
行くようでした

そして館の大広間に通されました
たくさんの衣ずれの音
鎧が触れ合う音がします 
やがてスーッと静かになり
「芳一
と女の声がしました

「芳一
みなそなたを待っておりました
さっそくそちの琵琶を聴きたい
源平の壇ノ浦の件りを」

芳一は無言でヅーンヅーンと琵琶を
調弦しました
そして息を深く吸って語り始めました

たちまち大広間は壇ノ浦の合戦場と
変わったのです
打ち合う刀の音
空を裂いて飛び交う矢
武者の雄叫び
そして激しい波しぶき
芳一の琵琶の音はそれらを ありありと
聴く人の心の中に蘇らせました

やがて幼い安徳天皇が
小さな手を引かれて入水される件りでは
広間のあちこちからすすり泣きが
漏れました

芳一が最後の音を放ち終っても皆
シーンと静まり返っておりました
やがて
「芳一」
「芳一
そなたの琵琶はまこと天下一」
芳一は深々と頭を下げました
体中を熱いものがみなぎる思いでした

「芳一
今宵より七日間そなたの琵琶が聴きたい
明日の夜も来てたもれ
それとこのことは誰にも話してはならぬ
よいな」

あくる朝芳一はお寺に戻りました
和尚さんは夜通しどこに行っていたのか
尋ねましたが
芳一は何も答えませんでした

その夜
芳一は琵琶を抱えて出かけました
その後を
二人の寺男たちがつけて行きます

芳一は
何かわけがあるに違いない 
行き先を確かめるように
と和尚さんから
言い含められていたのです

雨になりました
芳一はお寺の裏の墓地に入って行きます
寺男たちも後を追います
そこで二人が見たのは

それは激しい雨に打たれながら 
ある暮石の前で
一心不乱に琵琶を掻き鳴らす
芳一の姿でした

それは安徳天皇のお墓でした
寺男たちは力づくで芳一を
連れ戻しました
和尚さんが芳一に言いました

「芳一
いまやお前の琵琶は怨霊の心も
虜にするらしい
芸の力とは恐ろしいの
だがそれがお前の命取りとなるぞ」

和尚さんは芳一を裸にし
全身に魔除けの呪文を書きました

「これでお前の体は魔物からは見えぬ
わしは今夜も村の法事に出る
お前は一人じゃ
よいな
朝になるまで
誰にも口を聞いてはならんぞ」


カチャッ
カチャッと
あの音が近づいて来ます

「芳一
芳一
迎えに参ったぞ
返事をせい芳一」
しかし芳一はじっと座禅を組んだまま
暗闇の中に黙しておりました

「ぬう
琵琶はある

弾き手がおらぬ

耳はある
口は無い
なるほどこれでは返事もできぬ
では
せめて
我が殿への芳一を迎えに参った証しに
その耳を貰っておこう」

芳一の両耳に鉄のような力がかかり
ぶちっ とちぎり取られました
芳一は無言の悲鳴をあげました


和尚さんが戻って来ました
「芳一
わしが悪かった
魔除けの呪文を耳に書き忘れたのだ
すぐに良い医者に診せてやる
ああ
魔物が来ることはもうあるまい」

この話は人々の口から口へと伝わり
芳一の名声は高まりました
そしていつしか人々は
この耳の無い琵琶法師を
耳なし芳一と
呼ぶようになったと言うことです
(了)

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