映画「レヴェナント」は、長く無い。
映画「レヴェナント」を観ました。
このアレハンドロ監督の前作、「バードマン」は傑作。
そしてこのレヴェナントは、「名作」。
あまりに正統派手法で妥協なく作られたこの映画は、この2016年には映画というよりも、アートと呼んだほうがふさわしいのかも。
そう思うのは、この作品に対して少し的外れな批評や、ミスリーディングを誘う予告編がオフィシャルに流れているせいもあります。
まず、この映画は予告編が予告しているような「復讐」を描いた作品では、ない。
復讐は、アレハンドロ監督が観客に鑑賞を続けさせるために用意したサービスのモチーフに過ぎなくて、決してこの映画のテーマではない。
また、何人もの映画「批評」ライターの方々も指摘している「長過ぎ」という点も、的外れ。
この「長過ぎ」が無ければ、監督がこの映画で狙った構造的効果は着地しない。
すなわちそれは、ガルシア・マルケスに代表されるラテンアメリカ文学の「語り口」。
いっこうに物語は進まない。
ムダとも思える状況描写の執拗な積み重ね。
ミニマル・ミュージックと同質の、常に「現在」を、ただただ見せることに特化した手法。
僕は、マルケスらのラテンアメリカ文学と、スティーブ・ライヒらのミニマル・ミュージックに、同じ指向性を感じます。
それは、もはやYouTubeすら1分しか鑑賞出来ないせっかちな「ユーザー」(もはや観客では無い)には、理解不能な時間軸。
この映画は、構造物として見なければならない。
ストーリーにカタルシスを求める映画では、無い。
「レヴェナント」は、あえて過去の映画作品に例えるとするならば、マイケル・チミノ監督の「天国の門」に近いと思います。
あの、ムダとも思える輪舞の執拗な描写。
あの映画に輪舞のシーンは、テーマを変えて3回登場します。
最後のクライマックスの殺戮の輪舞は、運動のダイナミズムにのみ特化した感情度ゼロの映像で、観る者に言語を失わせる絶大な効果を上げます。
映像そのもの、映像鑑賞時間が語る、という構造的映画が間違いなくあり「レヴェナント」や「天国の門」がそれにあたるでしょう。
よく、いまの時代に「レヴェナント」のような企画が通ったと僕は思います。
そして、ディカプリオの演技力は凄すぎる。
彼に匹敵する映画俳優は、いまの日本には1人もいないでしょう。
演技が「仕事」であるということを、まざまざと見せつけられます。
もう一回観たい。
これはスクリーンで舐め尽くさないと、失礼な映画ですね。
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