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十本の指「耳嚢」より

原題:怨念無しと極め難きこと 
(怨念がこの世にないとは言えない)

苗字は忘れたが、佐助、という者がいる。
高松の松平家に勤めている男で、かつては湯島にある聖堂で儒学を学んでいた。
この男の、若い頃の話である。
深川へ儒学の講義へゆき、その帰り道。
すでに夕暮れ時で、日も沈もうとしていたので
「我が家はまだまだ先だからな」と言って、仲町の方へ足を向けた。
仲町は富岡八幡の南にあった遊郭である。
そこの茶屋に泊まり、芸妓を揚げて遊んだ。

そして、真夜中。
眠っていた佐助はふと、目を覚ました。
下の階からブツブツと声が聴こえる。
念仏を唱えているようである。
そして、階段を上がってくる音が聴こえる。
佐助が寝ている部屋の障子の向こうを、誰かが通ってゆく。
恐ろしい。
だが、怖いもの見たさで佐助はそっと障子の隙間から覗いてみた。
女だった。
髪を振り乱し、ダラリと下げた両手が、血まみれだった。
指が、一本も無かった。
その有様は、気絶するかと思われるほどの恐ろしさだった。
佐助は、ただ布団を上から被って、それが通り過ぎるのを待った。
やがて物音ひとつしなくなった。
静けさが戻ると、佐助は隣に寝ている芸妓を起こして
「このようなことがあったぞ」と言った。
すると芸妓は、こう語った。

そのことである。
実は、この家の主人は、むかし夜鷹の親方をしていたのである。
それはそれは多くの夜鷹を抱え置いていた。
そのうちの一人が、あるとき病にかかった。
一日勤めては十日も床に臥せっていた。
親方は怒り、たびたびこの女に折檻を加えた。
なんども殴り、打った。
だが、親方の妻は夫と違い、慈悲の心を持っていた。
夫が折檻を加えるたびに、女は病であると言ってなだめていた。
あるとき、夫がこの女に激しい折檻を加えていると、いつものように妻が止めに入った。
殴る手を取ってなだめていると、夫はいよいよ怒り、腰の脇差を抜くと妻に斬りかかった。
その刀を、殴られていた女が掴んだ。
しっかりと、二つの手で光る刀身を掴んで止めた。
だが、その指は一本一本、切られて落ちた。
そして、十本の指が全て落ちた。

夜鷹の女は、その傷が元で死んだ。
今もその亡霊が夜な夜な出て、あのように通る。
そのため、日に日に客足も遠のいてしまっているのである。

佐助は、夜が明けてから帰った。
その後、何度かその茶屋の前を通ったが、もう誰もいなかった。
そして今ではその家も無いという。

(了)

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