林檎教。
「あなた達は今から救われます」
錆臭い体育館に、ショートヘアーの少女の声が脆く美しく響く。
廃墟となった中学校の建物は、今やカルト宗教のアジトとなっている。
この体育館は林檎を崇拝する、「林檎教」の入団式場だ。
林檎とは言っても、甘くて少し酸っぱい、ただの果物ではない。人の恐怖を狂気に変える、質の悪い麻薬だ。……質のいい麻薬なんて、あるのかどうかは知らないけれど。
舞台上には、ショートヘアーの少女、彼女の右隣に立つ僕、彼女の左隣に立つ隈の濃い少女、そして、後ろで真っ黒な革製のソファーに座っている男の計4人がいる。
そんな僕等をきらきらした目で見上げる、哀れで滑稽な入団希望者達。
彼等はこちらから見て右端から、男、女、男、女……と、性別毎に綺麗な列を8つ作っている。
「皆さん、準備は出来ていますか? これより、林檎教入団の為の神聖なる儀式を始めます」
ショートヘアーの少女の、泣きそうな、それでいて、幸せそうな声が入団希望者達の心を鷲掴みにする。
「……とは言っても、そんなに難しいことではありません」
ショートヘアーの少女は涙袋をぷっくりと膨らませ、優しく微笑んだ。
「1人1個、聖なる果実を配りましたね」
入団希望者達は、それぞれが手にした林檎をまじまじと眺める。
「それを隣に立つ異性に食べさせてあげてください」
彼等は林檎を与える相手を、お互いに見合った。
「ね? 簡単でしょう?」
入団希望者達の荒んだ目に、徐々に希望の光が差していく。
「では、私の言葉を復唱してから、始めてください」
そうショートヘアーの少女が言い終えると、喉の調子を整える為か、至るところから咳払いが聞こえた。
ショートヘアーの少女から、笑顔が消えた。
静まり返る体育館。
「……禁断の果実に、憂いなき救いを」
「禁断の果実に、憂いなき救いを」
彼女の声に続き、不気味に重なり合う声。
入団希望者達が隣の異性と共に、躊躇しながらも、決意のこもった目で、林檎を食べさせ合った。しゃりしゃりと、不快な咀嚼音が体育館中に響き渡る。
こちらから見て、1番左の列の、真ん中辺りの女が1人、ふふふと笑みを浮かべた。次は彼女の右隣から。徐々に不気味な笑い声が周りの人間に広がっていく。
ここからが見ものだ。
頭を振る者、涎を垂らす者、床を転げ回る者、泣く者、叫ぶ者、地面に頭を打ち付ける者……。
林檎の形をした麻薬が、彼等を快楽の世界へと誘うのだ。
「キス!」
ショートヘアーの少女が叫ぶと、快楽の奴隷達が近くにいる異性の唇を貪るように奪い合った。
むちゃら、むちゅ、どぶちゅ……。
粘液と肉が溶け合い、湿気に混じって、官能的な音を鳴らす。
ショートヘアーの少女は涙袋を浮かべ感動し、隈の濃い少女は満足そうな顔をし、僕は嗤い、ソファーに座った男は未だに無言だった。
「セックス!」
ショートヘアーの少女の声に、快楽の奴隷達は抱き合い、舐め合い、服を脱がし合い、喘ぎ出す。
何が救済だ。何が聖なる林檎だ。
見て分かるだろう? こんなの、ただのイカれた集団だ。
それがいい。
アンダーグラウンド系の話が好きな僕にとっては、興奮以外の何ものでもない。
「目を覚ませ!」
舞台と向かい合う壁にあるドアが開き、濃紺色のペストマスクを被った男が入ってきた。
「こんなのおかしいだろ! どうかしてる!」
彼の言葉には誰も耳を傾けず、快楽の奴隷達は一心不乱に行為に及んでいる。
僕達の後ろで、気配が動くのが分かった。
ソファーから立ち上がった男が、ショートヘアーの少女の右斜め前に立った。
シルクハットを被った、モデルのようにすらりとした体型の男。
通称、「シルクハットの林檎屋」。
林檎教の教祖である。
ショートヘアーの少女が、彼の後ろ姿をうっとりとした目で眺めている。
シルクハットの林檎屋が、気持ちのいい低音ボイスで言った。
「彼は救いを求めている。いざ、救済を」
すると突然、快楽の奴隷達がペストマスクの男に向かって走り出した。
逃げ切れず、彼等の波に呑まれて、ペストマスクの男は僕達の視界から姿を消した。
ペストマスクの男の叫び声、食べかけの林檎を持って群がる快楽の奴隷達の歓喜、隈の濃い少女の感嘆、ショートヘアーの少女の恋心、僕の嗤い声、シルクハットの林檎屋の静かな拍手。
林檎教。
「湿気の街」の住人を、恐怖から救い出す教団。
今日も拭えない恐怖を狂気に変える。
【登場した湿気の街の住人】
・アングラ嗜好少年
・ショートヘアーの少女
・オカルト少女
・シルクハットの林檎屋
・「林檎教」入団希望者達
・ペストマスクの男