深海。
ぎきょ、ぎきょ、ぎきょ。
隣家の裏庭に、ガスマスクを被った男がいた。ブルーシートの上で人肉を切っている。
僕はその光景をただただ眺めていた。
人はいつか死ぬ。
寿命かもしれないし、病死かもしれない。或いは事故死かも。理由は何ではあれ、人は等しく死ぬ。生前、どんなに素晴らしい功績を残そうと、史上最悪な事件を起こそうと。
あーやって、糸鋸でばらばらにされちゃえば、皆同じ肉塊だ。
だったらって、きっとあいつも思ったんだ。なら、死んでもいいやって。
昨日貸したゲーム、ちゃんと帰ってくるのかな。
あぁ、死にたいな。
この街に救いなんてない。憂鬱と湿気が纏わり付いて離れない。もうどうにもならない。
夜空に煙草の煙を吐き出すように長い息をし、玄関に向かおうとした。
「彼の背中には巨大な憂鬱が靠れかかっているのです」
声のした方を向いた時には、何かに囲まれていた。
自宅の裏庭。
僕の周りには変なお面を被った集団がいた。
目と口の部分に円形の穴が空いた、真っ黒なお面。まるで、闇のようだった。
「しん、かい、ぎょ」
真っ黒なお面の集団の中の1人が言った。
「しん、かい、ぎょ」
その後に別の誰かが続いた。
「しん、かい、ぎょ」
そうやって、どんどんと広がっていく。それぞれ、ばらばらに。ビブラートを効かせた不協和音が闇夜に響く。
僕は心地よくなっていた。
目を瞑り、闇が放つ音を楽しんでいた。
「しん、かい、ぎょ」
次第に眠気が襲ってきた。
体内に蔓延るねちょねちょした憂鬱をシャワーで優しく洗い流され、心を揉み解されていく感覚。そんな癒し効果みたいなものが、彼等の奏でる曲にはあった。
「しん、かい、ぎょ」
身体が小刻みに震える。黒目が上を向き、「あぁああぁ……」と無意味で無感情な声が漏れ、涎が垂れる。
「しん、かい、ぎょ」
気が付けば、真っ黒なお面の集団はもう数センチのところにいた。前後左右、逃げ場なんてない。逃げたくもない。
急に、辺りが静まり返った。
何故か、それが目を開ける合図だと分かった。
目の前に、提灯鮟鱇のお面を被った男がいた。
お面の前面に垂れた長い背鰭からは、仄暗い青色の光が放たれていた。
「君も、闇に」
提灯鮟鱇のお面の男の囁くような聞き心地のいい声と闇を照らす妖しい光に、脳が蕩けていた。
気が付けば、かくかくと無意識に頭を縦に振っていた。
すると、提灯鮟鱇のお面の男に真っ黒なお面を渡された。
提灯鮟鱇は闇があるからこそ、光を放つ。僕も闇の一部になる。そう、一部に。ただの一部に。
隣家の裏庭では、ガスマスクの男が切断した人肉をキャリーバッグに詰めていた。
どうせ死ぬなら。
よく聞く言葉が頭を過った。
どんなに素敵なことをしても、どんなに極悪非道なことをしても、どうせ死ぬ。どうせ死ぬけど、どうせ死ぬなら、ばらばらにされるより、誰かと繋がる方が惨めな気持ちにならなそう。それだけだった。
闇のお面を被った理由は、たったそれだけ。
*
「しん、かい、ぎょ」
今夜も闇の合唱が湿度の高い街に響く。
提灯鮟鱇が救世主であり続ける為に、僕等は深海であり続ける。
【登場した湿気の街の住人】
・死にたい男子高生
・食肉切断屋
・オカルト少女
・憂鬱集団、「闇海」
・提灯鮟鱇のお面の男