
バレンタインの特別編:激安ラブホ・バレンタイン。
がんっ、がんっ、がんっ!
人から借りた釘バットを、丸テーブルに叩き付ける。
がんっ、がんっ、がんっ!
その度に、ベッドの上で可哀想なぐらいに身体を震わせる彼が可愛い。
がんっ、がんっ、がんっ!
先程まで彼の吸っていた煙草の吸い殻が、深い青色の硝子製灰皿の上で跳ねる。
がんっ、がんっ、がんっ!
「ちょっ、ちょっと、待って。何?」
男は握り締めていた濃紺色のペストマスクを被り、私に右掌を向けた。
「俺……何かした?」
会話をしながら、必死に物を探しているのが分かる。残念だけど、君のバールはこちら側、丸テーブルに立てかけられている。
「何も! してない! アル!!!」
がんっ、がんっ、ばきぃっ!
丸テーブルが真っ二つになって倒れた。灰皿は、がごんっ、という重い衝撃音を立てて床に落ちたが割れなかった。宙を舞った煙草の吸い殻は、花を咲かせたみたいに灰皿の周りに飛び散った。
「じゃ、じゃあ、何で!?」
ペストマスクの男は本当に意味の分からない状況に、かけ布団を両手で掴んで、ただただ震え続けていた。
「……」
釘バットを片手に、無言で睨み付ける私に痺れを切らしたのか、ペストマスクの男は恐る恐る口を開いた。
「えっと……ラブホに誘ったのは君だよね? それでここに来て、ただ会話して、まだ、その、手も出してもないって言うか……好きなスイーツの話題になったら急に、釘バットでテーブル叩くって……おかしくない? え? おかしくない?」
おかしいのは分かってる。そんなの重々承知してる。でもでもでもさ、そもそも、チャイナ服着て人肉で作った肉饅を無料で配ってる少女に、突然ラブホに誘われて行っちゃうあなたも十分おかしいよ。おかしい。おかしいけど、おかしいけどさ、でも、そんなあなただけど……。
「ばーーーーーーーーーーーーーか!」
釘バットをペストマスクの男に向かって投げた。
「うわえぇっ!?」
ペストマスクの男は顔をベッドに埋もれさせ、何とか避けた。
どかっ!
釘バットは勢いよく壁に当たり、小さな窪みを作って、ベッドに落ちた。
「な、何すんの!?」
顔を上げた男のペストマスクを取り、私は彼の口に、ある物を押し付けた。
「んんっ、んんんっ!」
突然のことに驚き、呻く彼。が、何度か咀嚼をしているうちに、落ち着きを取り戻し、
「ち、チョコレート饅!?」
右手で握った、口に入り切らなかった残りを見ながら、びっくりしたように言った。
突然、男は何かに気付いた顔をした。
「あ……え? バレンタイン?」
「うるさいアル!」
気が付くと、足元にある灰皿を投げ付けていた。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、物に当たらないと頭がおかしくなりそうだった。
「うわえっ!?」
男は再び体勢を低くして避け、灰皿は壁に当たった後、ベッドに落ちた。
「だから、それ止めろって!」
男は顔を上げると、ぴたりと止まった。まじまじと私を見ている。
「……あれ、君って、何でそんな……」
男の目がとろんとしていた。
「チャイナ服なんて、着ちゃってさ……」
薄暗い照明、3時間で2300円という激安ラブホらしいチープな内装、狭い空間、固いベッド。
その中で男の2つの目が、ねっとりと妖しい光を放ってこちらを見ていた。
脳裏に、ある女が浮かぶ。
真っ白な髪と青白い肌、真っ赤なタイトワンピースを着た、華奢で、美しい女。
「アングラの女帝」。
裏ではそう呼ばれているけど、私は「お姉さん」と呼んで慕っている。
『作戦名、「激安ラブホ・バレンタイン」』
お姉さんがくれたのが、このチョコレート饅だった。
『これを食べさせてご覧なさい。彼はあなたに夢中になるわよ』
彼は私に夢中になる。彼は私に夢中になる彼は私に夢中になる彼は私に夢中になる彼は私に夢中になる。
彼は、私に、夢中になった。
「……可愛いね、君」
男のうっとりとした目が私を捉えた。
手が震える。顔が熱くなる。呼吸が苦しくなる。
ずっと聞きたかった言葉が、今、私の耳に。
「可愛いね」
潤んだ瞳で男が立ち上がった。勃ち上がってもいた。
自分の意志がなさそうなぺらっぺらな雰囲気、人を虜にしそうな危うい笑み、思わず頭を撫でたくなる甘えた声。
いいんだろうか。これは私の力なんだろうか。道具を使って手に入れた彼と、私はこのままここで……。
「ほら、おいでよ」
激安ラブホ、付き合ってもいない男女、ベッドに転がる釘バットと灰皿、媚薬で酔った獣、狡い私。
私は……。
激安ラブホ・バレンタイン。
作戦名も馬鹿なんだ。乗ったからには、私も馬鹿になってしまえ。
私は男の右手にあるチョコレート饅の残りを奪い、自分の口に放り込んだ。
【登場した湿気の街の住人】
・肉饅乙女
・ペストマスクの男
・アングラの女帝