救世主。
校舎に入る。
外とは打って変わって、怖いぐらい静かだった。
辺りを警戒しながら、昇降口を進む。両側を背丈よりも少し高い下駄箱に挟まれながら。
下駄箱の列が途切れた場所から、両側にこちらを向いた椅子が綺麗に並んでいた。
椅子の上には1つずつ、真っ黒な林檎が置かれている。
椅子が作る道を進んでいくと、階段に差しかかった。
1段目に右足を乗せる。
特に何か仕掛けられているわけではなさそうだ。
階段で椅子の列は途切れていたが、1段ずつ両側に黒色の林檎が置かれているのは変わらなかった。
踊り場に出ると、また黒い林檎が置かれた椅子が並び、階段になると、林檎だけが置かれている。
嗅いだことのある臭いがして立ち止まった。
すぐに分かった。
廃工場の臭いだ。埃と湿気と黴と錆が混ざり合った、不快で冷たい臭い。
顔を上げる。
3階へと続く階段の踊り場に、黒羊駱駝のお面を被った男がいた。
暗闇であまり見えないが、俺を見下ろしているのは分かる。
凍えるように冷たく、刃物のように尖った視線が痛いぐらい伝わってくる。
「待ってた」
黒羊駱駝のお面の男が無感情に言った。
口の中に広がる、あの夜の記憶。
街を黒い夜が覆い始めた、廃工場でのあの夜。
電飾看板、黒豚、死体……。
「僕達は、悪魔」
その言葉が口の中で最悪な味を思い出させた。冷たくて、固くて、生臭い。無理矢理食べさせられた、あれの感触。
吐きそうになるのを堪え、再び前を向いた。そこにはもう、黒羊駱駝のお面の男の姿はなかった。
止まっている時間はない。進まなくてはいけない。早くあいつに制裁を加えないと。校庭では今も戦争が行われているのだから。
右足を上げようとして、その場で止まった。
ふと、思った。
誰が1番悪い?
「湿気の街」に黒羊駱駝のお面の男が現れてから、毎晩街は黒い夜に覆われるようになった。ほぼ同タイミングで「林檎教」が黒色の林檎を配り始めた。林檎を食べた街の住人は破壊衝動に駆られ、街を壊し回った。
街を黒い夜で覆った黒羊駱駝のお面の男、黒い林檎を配った林檎教、危険な物だと分かっていながら林檎を食べた街の住人。
誰が1番、制裁を受けるべきだ?
元凶は黒羊駱駝のお面の男だろう。だが、街を壊したいと思わせる林檎を配ったのは林檎教だ。で、実際に街を壊しているのは街の住人。
分からなくなった。
誰を罰すればいいんだ? どうすれば、正しい制裁が行える?
街では爆発音が続き、校庭からは未だに悲鳴が聞こえてくる。
……いや、違う。
1番とかじゃない。悪いか、悪くないか。それだけだ。紫色のペストマスクを被ってから行っていることと何も変わらない。
今、目の前にいる悪を罰する。
バールを握り締め、階段を駆け上がる。
不思議と痛みは消えていた。
そうだ。何も迷うことはない。
目の前の悪を倒す。それだけだ。
*
ぎぃぃぃぃぃっ!
ドアノブを握り、錆び付いたドアを勢いよく開けた。
湿った風が身体中を撫でる。
真っ黒な夜空の下、モデルのようにすらっとした影が屋上の真ん中に立っていた。
右足を1歩、踏み出す。
校庭とは違い、固い感触が足を伝う。冷気が足元から漂ってくる。
「待っていたのだよ、制裁者さん」
シルクハットを被った林檎教の教祖、「シルクハットの林檎屋」の、心地いい低音の声が屋上に響く。
「どうだろう? 君は今の街をどう感じている?」
シルクハットの林檎屋は、校庭を一瞥した。
「人々が壊し合っている。相手の破壊を望んでいる」
街のどこかで悲鳴が上がり、黒煙が夜空に上がる。
「人が物を壊す。人が人を壊す。人が、街を壊す。その過程はどれも汚く、醜くて、美しい。既にあるものを、マンネリ化した世界を壊すことこそ、マンネリを唯一解決する方法だとは思わないかい?」
シルクハットの林檎屋は心から楽しそうな声で、再び尋ねた。
「どうだろう? 君は今の街をどう感じている?」
俺はただ彼を睨み続けていた。
「……分からない。壊すのが美しい。そういう感情は分からない」
バールを右手で握り締める。痛いぐらいに。離さないように。
「分からないけど……これだけは、確実だ」
悪を倒す。悪い奴には罰を。
それだけは、それだけは確実に。
「お前に制裁を下す」
バールを振り上げ、走り出そうとした時、
「禁断の果実に、憂いなき破壊を」
シルクハットの林檎屋の前に、複数の影があることに気付いた。
1、2、3……7人。
黒装束を着た7人の男女が、彼を守るようにして横一列に並んでいた。全員、両手で1脚の椅子を持って。
ふふふ、というシルクハットの林檎屋の笑い声が耳障りだった。
「私が1番見たいのは、人の破壊衝動でも、人が街を破壊する光景でも、人同士の殺し合いでもない。自分の破壊を正しいと信じて止まない……君の破壊される姿なのだよ」
自分でも分かっていた。
自分の身体に、7人も相手に出来る程の体力が残されていないことを。分かっていて、分かっているからこそ、冷静に負けると思った。
勝てない、と思うと同時に忘れていた痛みが身体中を駆け巡った。
使い過ぎた右腕、両脚、大男に両手剣で切られた背中と左肩。
それでも、もう引けなかった。
紫色のペストマスクが悪の制裁を望んでいる。頭の中で「乾いた悪には、湿った制裁を」と、呟き続けている。
だから、俺も。
「……乾いた悪には、湿った制裁を」
まるで呪文のような言葉だった。痛い部分に紫色の粘液が染み込んでいき、力を与えてくれるような感覚になった。
「うおおおぉぉぉおおおぉぉぉっ!」
全力で叫び、7人に向かって走り出した。
そんな、つもりでいた。
背中に走った痛みに耐え切れず、その場で崩れ落ちた。両手と膝を地面につく。
顔を上げる。
黒装束の7人が俺を囲み、椅子を振り上げた。
全てがスローモーションに見えた。
天に翳された椅子が徐々に俺めがけて、急降下してくる。
俺はただそれを、見上げているだけだった。
「こいつ等は害獣である」
無感情な言葉が、実際に宙に浮かんでいるように見えた。
同時に、黒装束の7人が後ろへ倒れていった。
一気に視界が開け、景色も、音も、全てが通常の速度に戻った。
俺を囲むようにして地面に倒れている、黒装束の7人。
その更に周りを、それぞればらばらの見た目をした7人の男女が立っていた。
地味だけど気の強そうな女子高生、日本刀を構えた女子高生、病的な程に肌の白い男、首輪を付けた四つん這いの少女、灰色の防護服を着た男、紫色の唇の女、メリケンサックを両手に嵌めた男。
知っている人も、知らない人も、どこかで顔を見たことがあるような人もいた。
それでもいい。何でもいいと思えた。
彼等からは、妙な安心感を覚えた。
黒装束の7人が無言で立ち上がった。彼等の興味は突然現れた謎の7人に向いていた。
メリケンサックの男と目が合う。
何を言いたいかは、すぐに分かった。
無言で頷き合う。
俺はバールを支えにし、痛む身体に鞭を打って立ち上がった。
ここで終われるわけがない。ここで街を終わりにしていいわけがない。
この街を脅かす奴は俺が殺る。
シルクハットの林檎屋も、黒羊駱駝のお面の男も、どれだけ時間がかかろうと、最後まで徹底的に追い詰めてやる。
俺が動き出すのと、周りの14人が戦い出すのはほぼ同時だった。
走りながらバールを振り上げる。
後はこいつに制裁を下すだけ。この街を壊す悪には徹底的な罰を。
目の前のシルクハットの林檎屋に向かって、バールを振り下ろそうとした。
「むぐっ!」
それよりも早く、長い脚で腹部を蹴られた。尖ったブーツの先端が腹の肉に減り込む。
蹌踉めいた隙に、シルクハットの林檎屋がペストマスクの嘴を掴んで先端を上に向けた。
「んむぐぐっ……」
顎が上に向き、自分の喉仏が肉の下から飛び出そうとしているのが分かる。
シルクハットの林檎屋が右手の爪を構えた。先端の尖った真っ黒な爪。何でも切れそうなぐらい磨きがかけられている。爪が徐々に喉元へ……。
「んぐあぁっ!」
俺は勢いよくバールを振った。
バールの先端が何かを掠めた。見ると、シルクハットの林檎屋の左頬に赤色の横線が入っていた。
更にバールを振り上げ、今度は額に打ち付けようとした。
その前に再び、腹部を蹴り上げられた。先程やられた箇所と同じところを。
「へっは、はぁ、はぁ……」
鋭い痛みと呼吸の出来ない苦しみが襲ってくる。
思い出せ。
何故こうなった。
いつから人を裁くような人間になった。
シルクハットの林檎屋が首を左右に傾け、ぽきぽきと骨の音を鳴らせる。
林檎教を止めようと、アジトへ乱入。シルクハットの林檎屋に命令された信者に無理矢理、麻薬の林檎を食べさせられた。その後、自我を失って、ラブホ区域を彷徨った。ある人達に助けてもらって正気を取り戻したが、記憶を失った。林檎教に潜入して、ラブホ区域を彷徨くまでの話は全部その人達に教えてもらった。そこからだ。紫色のペストマスクを拾い、悪人を裁きたくなったのは。
「はぁ……はぁ、はぁ……」
呼吸を整え、シルクハットの林檎屋を睨み付ける。
確かに、俺は馬鹿だった。この街の救世主だからと調子に乗って、単身でカルト集団に戦いを挑んだ。
馬鹿だったけど、けど……でも、それは危険に晒されているこの街を救いたかったから。
臭い言葉だろうけど、記憶はないけれど、きっと、そういうことだったんだと思う。
本当は、辛かったんだ。
紫色のペストマスクに命令されるがままに悪を制裁する。
湿気の街の制裁者になった。
でも、何かが違った。
心のどこかで、自分はこれじゃないという違和感があった。
呼吸がし辛いのを我慢して、バールを振るった。何度も何度も。俺は制裁者だって、自分に言い聞かせて。
だから、誓った。
制裁者でいることに意味を見出す為に。
シルクハットの林檎屋を殺すまでは、制裁者でい続けようって。
誓った。
誓ったんだろ、俺。
じゅびじゅびじゅび……。
黒い雨が降り始めた。
雨の降らない街に、腐敗臭のする雨が。
顔を上げ、無言で浴びる。
雨がペストマスクと身体に染み込んでいく。
頭の中が、真っ黒になった。
「うがああぁぁぁあああぁぁぁあぁぁっ!」
走る。バールを振り上げる。振り下ろす。固い感触。再び振り上げる。蹴られる。バールが吹っ飛ぶ。殴る。蹴られる。殴る。引っ掻かれる。殴る。殴る、殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
雨なのか、汗なのか、血なのか、雨音なのか、悲鳴なのか、笑い声なのか……。
冷たさと疲れと興奮で、感覚がバグった。
死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!
ひたすら、両拳を振り回し続けた。
「ひぃあぁっ!」
鋭い痛みで我に返る。
シルクハットの林檎屋に抱き締められていた。
彼の両手の鋭い爪が、背中と左肩の傷口に刺さっている。
シルクハットの林檎屋が力を込める度、ぐぐぐと爪が食い込んでいくのが痛みで分かる。
抵抗しようにも、シルクハットの林檎屋の意外な程の力の強さに身体が動かない。
「ひぃっぎぃああぁぁぁぁぁっ!」
その間にも、傷から新たな血液がどくどくと流れ出ていく。
傷口に真っ黒な液体が降り注ぐ。
駄目だ。痛みでどうにかなってしまう。
と思ったら、急に身体が解放された。
次の瞬間には腹部を蹴られ、体勢を崩した俺は地面に倒れた。
ぬちゃ。
腹の上に重い何かが乗った。
顔を上げる。
シルクハットの林檎屋が、冷たい目でこちらを見下ろしていた。
顔中、血と雨塗れ。
暗過ぎる夜の所為かは分からないが、一切の表情も読み取れなかった。
シルクハットの林檎屋の両手が俺の首まで来た。そのまま力が加わる。
抵抗しようにも、するだけの力が残っていなかった。
シルクハットの林檎屋の見たことないぐらい必死な顔を眺めながら、段々と意識が遠のくのを感じた。
終わる。
直感で分かった。
俺の制裁者としての道も、街の住人の生死も、街の運命も、どうすることも出来ないまま終わってしまう。
身体に力が入らない。
痛みと苦しみで、思考が停止した。
*
遠くなった聴覚に、微かな打撃音が響いた。
首回りにかかっていた力もなくなり、酸素が身体中を一気に駆け巡る。
「げほっ、げほっ、おぇっ……」
蹲って呼吸を整える。
視界の隅で何かが動いた。
そちらに顔を向けると、大きな影があった。目を凝らす。闇夜に鈍い光が光る。
黒色の熊の着ぐるみを着た男がいた。彼の右手には血塗れのネイルハンマーが握られている。足元には、頭を抱えて俺と同じように蹲る、シルクハットの林檎屋。
熊の着ぐるみの男が振り向いて言った。
「俺は、ヒーロー。『黒熊ヒーロー』。街の住人を救う者」
ふらふらと立ち上がる。
雨の冷たさで、思考が停止していた。
ぬちゃ、ずちゃ、ぬちゅ……。
痛みに呻くシルクハットの林檎屋の近くに寄ると、彼の腹部を蹴り上げた。
どちゃっ。
簡単に仰向けになる、シルクハットの林檎屋。
そうか。きっとそうだ。彼は痛みに慣れていないんだ。
だって、ほら、ネイルハンマーで殴られた箇所を両手で押さえて泣いている。こっちが恥ずかしくなるぐらい情けなく。
だったら、尚更好都合だ。
どんどん泣け。もっと痛め付けてやるから。
足元に転がっているバールを拾い上げ、シルクハットの林檎屋の胸部に振り下ろした。
悲鳴を上げる彼。
今度は右腕、次は左肩、次は両手、額、頭、顔面……。
ぐちゃっ、ぐちゅっ、ぐにょっ……。
液体の混ざった音が辺りに響く。
泣き声が小さくなっていく。
もっとだ。足りない。
原型を留めないぐらいにぐちゃぐちゃにして、ミンチにして、ハンバーグにして食べてやる。
勢いよくバールを振り上げて、止まった。
視界の隅に、黒羊駱駝のお面の男が見えた。
ずぶ濡れになりながら、棒立ちでこちらを眺めている。
真冬に放置した針のように鋭くて冷たい視線。それでいて、何かを期待するような視線。
突然、頭の中にあの夜の記憶が映像のように再生された。
廃工場、切断された死体、それを貪り食う黒豚、殺人動画、こちらを見つめる頭部……。
『僕もペーちゃんと同じ、破壊者』
バールを振り上げたまま、シルクハットの林檎屋を見下ろした。
シルクハットは取れ、顔は血と肉と雨でぐしゃぐしゃで、あれ程纏っていたカリスマ性なんてもう微塵も感じなかった。
俺はまだこいつを、壊そうとしているのか?
そんなことを思ってしまった。
シルクハットの林檎屋の顔を見ているうちに、黒豚にむしゃむしゃと食われていた顔と重なった。
濁った瞳で、俺を見ている。
バールを持つ手が震える。
俺は制裁者。この街の悪を裁く者。股の下で血塗れになって倒れている男は、俺が最もバールを振り下ろしたかった極悪人。
俺はやるべきだ。俺は、こいつを……。
頭の中で黒羊駱駝のお面の男が囁いた。
『僕達は、悪魔』
がこん。
バールが固い何かに当たる音が辺りに響く。
静まり返る屋上。
両手をだらりと下げて、首から力を抜いた。
もう、何もかもがどうでもよくなっていた。
動く気力すらなかった。
俺はゆっくりと紫色のペストマスクを取り、地面に放り投げた。
何の加工もされていない街の空気が、鼻と口へ入ってくる。
無理だった。
俺には出来なかった。
と言うより、嫌だった。同じになるのは。あいつと、悪魔なんかと。
「……おい。何してる……おい!」
悪魔の、聞いたことないぐらい取り乱した声が聞こえた。
「おい! 何してる! 殺れ! 早く! いいから殺れ! お前も悪魔だろう!? おい貴様!!!」
「うぇ……おぇ、ひぐぅ……うわぇ……」
シルクハットの林檎屋は仰向けで倒れたまま、俺が捨てたバールの隣で子供みたいに泣きじゃくっていた。
ごろん。
シルクハットの林檎屋のジャケットのポケットから、何かが転がり出てきた。
何度も見てきた。食べかけの黒い林檎。
「……はは、ははは」
何だよ、お前もじゃないか。
突然、空気が変わった。
不快なぐらいにぐじゅっとした湿気が、街を一気に包み込む。
辺りを見回す。
屋上に転がる、6人の黒装束の男女と7脚の椅子。
突然現れたあの7人は、いなくなっていた。黒羊駱駝のお面の男と共に。
いつの間にか、黒い雨は止んでいた。
足音が近付いてくる。
そちらに顔を向けると、獏のお面を被った男とツインテールの少女がいた。
「お帰りなさい」
獏のお面の男が眠そうな声で言った。
「ずっと待ってました」
彼がこちらに差し出したのは、濃紺色のペストマスクだった。
脳の隅で、灰色の記憶が蠢いた。
「あなたの勝ちです。彼を殺さなかったあなたの。制裁者ではない、あなたの」
「俺の……勝ち……」
俺は恐る恐るペストマスクを受け取った。
「そして、それは街の勝利を意味します」
獏のお面の男が横を向いた。
彼の視線を追うと、黒熊ヒーローの背中があった。顔を上げる黒熊ヒーローの視線の先には、空があった。
殺さなかった、俺の勝ち。
胸の奥でぬらぬらと嗤っていた紫色の粘液が、泡と煙を上げながら消えていく。
何かが終わった。
それは悪い意味ではなく、春風のようにとても爽やか。
黒い夜が、明けようとしていた。
深海のような、仄暗い青色に変わろうとしている。
両手で持ったペストマスクに、もう1度視線を戻す。
これが何なのかは、未だに思い出せない。
被ったら、ちゃんと記憶は戻るんだろうか。元の俺に、戻れるんだろうか。
もう、誰も、傷付けなくていいんだろうか。
頭が痛い。涎が垂れる。
……もう、いいや。
考えるのに疲れた。
俺には、被るという選択肢しかないんだ。
「それを被って、校庭にあなたの姿を見せてあげてください」
獏のお面の男の眠そうな声には、妙に心地のいい温かさがあった。
立ち上がる。
よろける身体に力を込めた。
校庭からは未だに殺し合う音が聞こえてくる。
それも段々と小さくなっていた。
「全てを終わらせるんです」
一歩、一歩、手摺りへ近付いていく。
路地裏、どぶの臭い、配管、室外機、街路灯、自動販売機……。
全てが懐かしく、愛おしい。
「僕達、『狂気処理屋』が、黒色の林檎を食べた人々から悪意を取り除きます」
空気を吸い込む。
「だから」
湿気が鼻腔に纏わり付く。
その事実ですら、涙が出る程嬉しかった。
「街を救ってください。僕達の街を」
ペストマスクを持ち上げ、頭に近付ける。
「あなたが」
空に少し、灰色の雲が見えた気がした。
「救世主が」
【登場した湿気の街の住人】
・ペストマスクの男
・黒羊駱駝のお面の男
・シルクハットの林檎屋
・「林檎教」信者達
・害獣探偵
・正気な女子高生
・日本刀女子高生
・狼少女
・死体掃除屋
・花屋、「痙」の店主
・路地裏バー、「深海魚」のマスター
・黒熊ヒーロー
・獏のお面の男
・催眠少女
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