
鮫のピアスと深海魚。
廃工場で写真を撮っていると、ある夜道が頭に浮かぶ。
湿気で黴た家、妖しく光る街路灯、泥濘んだ地面。角を左に曲がれば、家族が待つ我が家。
それはとても不鮮明で、まるでブラウン管テレビを見ているみたいに、寂しげな映像として頭の中で流れ始める。
廃れた工場の中でカメラのシャッターを切っている今も、例外ではない。
暗闇から何かが現れて、殺しにくるんじゃないかと思えるここで、私は撮影をしている。
今日も私はあの夜道を通って、きちんと家に帰れるんだろうか。
そんな不安に押し潰されそうになりながら、胸をときめかせ、写真を撮り続ける。
*
精肉工場だったのだろう。
天井には無数の鉤がぶら下がり、列をなしている。
この廃工場に入るのは初めてだった。今まで何故か入るのに抵抗感があったが、勇気を出してみた。結果、どの廃工場よりも生々しく不気味な光景に、異臭なんて気にならないぐらい興奮していた。
かしゃ……かしゃ……かしゃ……。
纏わり付く湿気、部屋を覆う圧倒的な闇、地面を這う名も知らぬ蟲。
全てを撮りたくて、切り取って私の物にしたくて、一心不乱にシャッターボタンを押す。
やっと気が付いた。
何かに囲まれている。
撮影を止め、辺りを見回す。
窓のない部屋。ドアは正面に1つだけ。黒い影達が私を見ている。
暗闇に目が慣れる。
真っ黒なお面を被った集団が、私を囲むようにして立っていた。目と口の部分に円の形をした穴が空いた、シンプル且つ得体の知れない気持ち悪さのあるお面。
身体は温かいのに、芯は冷え切っていた。額に嫌な汗が浮かぶ。
「しん、かい、ぎょ」
真っ黒なお面の誰かが口を開いた。声から察するに男だろう。
「しん、かい、ぎょ」
別の誰かが続いた。幼い声。男か女かは判断出来ない。
「しん、かい、ぎょ」
深海魚。
彼等はそう言っているのだろうか。
「しん、かい、ぎょ」
広がっていく。私の周りにいる真っ黒なお面の集団が、ビブラートを効かせて言葉を発する。はらばらに、交わることなく。不協和音となって、広がっていく。
喉はからからだった。手が震える。手の内側に汗を掻き始める。
「しん、かい、ぎょ」
不快な音が徐々に大きくなっていく。近付いている。私に向かってくる。
来るべきじゃなかった、こんな廃工場。
そうか。だから避けてきたんだ。ここは危ないから入るべきじゃないって。本能に従うべきだった。
殺される。私はきっと殺されてしまう。
「しん、かい、ぎょ」
半径50センチ以内から聞こえた。
怖くて、目を開けることが出来なかった。
真っ暗な視界の中、嫌な想像が膨らんでいく。
薄暗い光を放つ部屋で、鉤に吊るされ、前面に押し出されていく。鉤の刺さった私の背中が体重に耐え切れず、ぶちぶちぶちと皮と肉を裂かれていく。下では真っ黒なお面の集団が私を見上げ、嗤っている。私の叫び声は誰にも届かない。そうして、変な機械に入れられて、回転する鋸みたいな巨大な刃で身体を縦に真っ二つに……。
「しん、かい、ぐょうぇ……」
研ぎ澄まされた耳に届く声の1つが、おかしくなったような気がして我に返った。
「しん、がぎぃ……」
「ぐぎぃ、んぐっ」
恐る恐る、目を開ける。
どこからもあの不快な声がしなくなっていた。
その代わりに至るところから聞こえるのは、呻き声。
辺りを見回す。
私を囲むようにして、真っ黒なお面の人達が倒れていた。
皆、苦しそうに身体の一部を押さえている。よく見ると、黒い液体が飛び散っていた。
「ぐぎぃあっ……あがっ、こぼ、ごぼぼぼっ……」
短い悲鳴の後、まるで嗽をするような、喉で液体を鳴らす音が部屋に響き渡った。
呻き声のする方を見る。
誰かがこちらに背を向け、真っ黒なお面の人のお腹の上に跨っていた。
背中を丸め、もぞもぞと動いている。
ぷちんっ。
何かが切れる音が辺りに響く。
ぬちっ、ぬちっ、ぬちっ……。
続いて、咀嚼音のような音。
跨っている誰かが、ゆっくりと振り返った。
「ひ……」
思わず、声が漏れた。
こちらを見て微笑む男の口の周りは、黒い液体で濡れていた。歯はまるで鮫のように、1本1本がぎざぎざに尖っている。
「や、止めっ、止めてください……」
別の場所で右肩を押さえ、懇願する真っ黒なお面の女。
鮫歯の男はそちらを見ると立ち上がり、彼女の元に向かった。また同じように跨る。
鮫歯の男が口を開いた。
「いい? 僕はね、狙った獲物は逃がさないんだ」
そう言うと、彼は女の首元に噛み付いた。鋭い歯が肉に食い込み、傷口からどりゅどりゅと血が溢れ出す。口からもがぼがぼと黒い液体が。
きっと明かりを照らしたら、辺りは地獄みたいに赤黒いんだろう。
そうだ。今のうちに逃げよう。
廃工場を撮影していたら、真っ黒なお面の集団に囲まれて、今度は彼等が鮫歯の男に襲われて、よく分からないけど……よく分からないから、今のうちに逃げてしまえ。
ドアの方を見て、足が止まった。
開いているドアから、真っ黒なお面がこちらを覗いていた。まるで、獲物が罠にかかるのを茂みで待つ猟師かのように。
もう、どうすることも出来なかった。
目の前では真っ黒なお面の人達が血を流しながら痛みに呻き、鮫歯の男が彼等を1人ずつ食い散らかし、ドアの後ろからはいつくもの真っ黒なお面が私を覗いている。
逃げても地獄、逃げなくても地獄。
私は立ち尽くしたまま動けなくなっていた。
呻き声が聞こえなくなった。
鮫歯の男がゆっくりと立ち上がる。すると突然、四つん這いになった。
「おっぼおぇっ……おぇっ、げほっ……」
じょぼじょぼじょぼ、と床に吐瀉物を撒き散らす。
「あーまじぃー。やっぱブスはまじぃー」
鮫歯の男がスウェットの袖で口を拭うと、涙目でこちらに近付いてきた。
彼の姿がはっきりしてくる。
黒髪マッシュ、前髪で隠れた目元、上下スウェット姿、裸足、両耳で揺れる鮫のピアス。
「やっぱ食べるなら、美人じゃないと」
そこで思った。
この人は私を助けてくれたんじゃないかと。
やり方に問題があっただけで、実際彼は私を得体の知れない危機から救ってくれた。
ドアの方からは未だに視線を感じる。
私はそちらを見ないようにしながら、震える声で尋ねた。
「私を……逃してくれるの?」
彼は真っ黒に汚れた口でにやっと笑い、首を傾けた。鮫歯が液体でぬめぬめとてかっている。官能的だと思えてしまう程に。
「僕はね、狙った獲物は逃がさないんだ」
どっちなのだろう。
疲れ切った脳でぼんやりと考えていた。
彼が狙っているのは、真っ黒なお面の集団か、私か。はたまた、どちらもか。
真っ黒なお面の人達は、まだ部屋の出入り口から様子を伺っている。
鮫歯を見せながら、鮫のピアスの男が私に近付いてくる。
私の手を取って、この狂った状況から救い出してくれるのか、単に私を……。
ふと、頭の中にあの夜道が浮かんだ。
湿気で黴た家、妖しく光る街路灯、泥濘んだ地面。角を左に曲がれば、家族が待つ我が家。
いつもとは違い、それはとても鮮明で、どこに黴があって、苔が生えているかも詳細に分かった。
今日も私はあの夜道を通って、きちんと家に帰れるんだろうか。
精肉工場の廃墟。カメラを片手に佇む私。鮫のピアスと深海魚。
あぁ、多分、無理だろうな。
どちらにしろ、私はどうにかなってしまう。
だから、無駄な抵抗は止めて、家畜の肉を裂いてきたこの血生臭い部屋で、ただただ自らの運命を待つことにしよう。
「……ふふ」
堪え切れなかった。
黒髪マッシュは大好きな髪型だ。雰囲気イケメンの彼に、鮫歯で無残に嚙み千切られるかもしれないという妖しい未来。
廃工場を撮るより、ときめいていた。
【登場した湿気の街の住人】
・廃工場嗜好少女
・真っ黒なお面の集団
・鮫のピアスの男