マリパのテレサでコイン奪う相手選択に「おまかせ」の選択肢つけた人を讃える会
マリオパーティ(すごろくをベースにしたパーティゲームで、集めたコインとかスターの数を競う)でテレサに会うと、他の誰かからコインを奪うことができる。そのときコインを奪う相手を自分で決めることもできるし、誰から奪うかランダムに決めてもらう「おまかせ」という選択肢もある。
小さい頃はこれが結構大事だった気がして、兄弟姉妹や友達と遊ぶとき「誰々から」を指名しづらいなあと思ったり自分で選んだらその相手と喧嘩になったりした記憶が自分はある。ちょっとTwitter(新:X)で「テレサ おまかせ」で検索するとそれと近い感覚の人をちょこちょこ見かけた。
ヨーロッパのボドゲ文化
少し前にスウェーデンに何日か滞在したときに、ホテルのロビーにボードゲームがめっちゃ揃っていたり百貨店に大きいボドゲのお店が入っていたりするのを見たのが印象的だった。ボドゲが盛んな国といえばドイツのイメージだけどヨーロッパ自体がボドゲが人気な地域らしい。
しかも前に出されているゲームが比較的重めのものが多いのも印象的だった。ここには映ってないけどアグリコラ(1ゲーム長すぎ!で有名なやつ)とかが堂々と前面に出ていた。
自分は大してボドゲに詳しいわけではないから違ったら教えてほしいのだけど、海外(欧州)のボドゲは例えば「同じ資源を配られて使い方を決める」みたいに、運よりも自分で考えて決める要素が多い印象がある。そういうところも海外産ボドゲが「重い」という印象につながっていそう。
それと比較すると日本産の有名ボドゲは人生ゲームを筆頭に、ダイスを振ったりババ抜きっぽくカードを引いたり、運で進んでいくものが多い印象がある。それは「ゲーム性が劣っている」とかではなく、それを遊ぶときの自分は運に委ねられた一喜一憂を通してコミュニケーションを楽しんでいるように思う。そういう意味では「カードのお題で〇〇する」みたいなコミュニケーションゲームも日本産が多い気がする。
自分には「ボドゲをしたり大量に保管するために広い部屋を借りた」という様子がおかしい友人がいるので「誰かに干渉するアクションがランダムなボドゲ」について聞いたりしていたのだけど、少なくとも自分やそういう友人の管見の限りでは見当たらなかった。
学級委員の決め方
さらに別の話へ飛んで(ちゃんと最後に帰宅します)、クラスで学級委員とか発表役を誰もやりたくないとき、くじ引きとかジャンケンで決めることを「ジャンケン民主主義」みたいな説明をしている人がいる。僕の理解でざっくり言うと、学級委員をやるコストを誰かが背負わないといけないとき、それを誰かに背負わせる意思決定や責任を運に委ねてみんなで分担することを「誰も悪くないし公平だ」とするみたいな感覚。
これは結構日本に特有な「ものごとの決め方」っぽくて、自分もスウェーデン滞在中の用事で、いろいろな場面や取り組みで「自分で何かを決めるための意志と責任」をすごく重視している様子を見た(具体的なエピソードは書けないから会ったら聞いて)。誰かが学級委員をしないといけないなら誰に負担を背負わせるかをそれぞれが考えて意見をぶつけ合うし「そのための権利と責任を全員に配ることが公平だ」とする世界観だと思っている。
勿論どちらが優れているという話ではなくて、何を公平と呼ぶのか・何を大事なことだと思っているのかの違いがあるだけで、どちらも良くできた方法のように思う。
別の文脈の話を連れてきてキメラにすると、日本では個人情報提供に同意しないことは滅多に無いということを題材に、そもそもプライバシーって概念自体が訳語もない輸入概念だし、みんなで協力しないといけない村の社会観からするとプライバシー権はある意味で「自分の権利のために村に情報を渡さない=集団への非協力」とも言えるし、あんま相性良くないんじゃない?みたいなことを論じている話などもある(かなり古いものだけど)。
Orito, Yohko, and Kiyoshi Murata. “Privacy protection in Japan: cultural influence on the universal value”. Electronic proceedings of Ethicomp. (2005).
http://www.isc.meiji.ac.jp/~ethicj/Privacy%20protection%20in%20Japan.pdf
テレサ is 良いとこどりデザイン
この公平性についての解釈を認めるとしたら、資源を平等に配って意思決定を楽しむ欧州ボドゲは権利と責任を全員に配ることを公平さと呼ぶ世界観に根ざしているように見えてくるし、運という関与できないもので自分が不利益を受けることは嫌うだろうとも思う。
一方で、その戦略性を出すための自己決定権はときに誰かを悪者にして空気が悪くなる原因にもなるから、場を盛り上げるという意味でのパーティゲームはランダムな要素が中心になるのだろうし、日本ではそういうボドゲの方が相対的に一般受けしたのではないだろうか。
ここまでを踏まえてマリオパーティの話に戻ると、テレサのデザインのポイントは「ランダムに誰かからコインを奪う」ではなく「コインを奪う相手をランダムにすることもできる」だということではないだろうか。
もしマリオパーティが欧州で開発されていたらテレサの「おまかせ」機能は思いつかなかったのではないかという気がするけど、それは「ヨーロッパなら自分の意思で選ぶから責任逃れの機能なんて要らない!」って意味ではないし、かといって単純に「調和に根差した日本のボドゲっぽい」というわけでもない。
これはあくまでまだ仲良くない人同士や幼い子ども同士の遊びのための安全装置で、気心知れた友人や賞金100万円マリパ大会(そんなのあるか知らないけど)はもちろん、はじめはおまかせを選んでも勝負の分かれ目や打ち解けたときには自分で選ぶ自由度が残ってるのが良い。「テレサでコイン奪えるようになったら知人ではなく友達」ということにしよう。
こういう子どもとかのコミュニケーションデザインに関する繊細さって任天堂っぽいなあと勝手なイメージで思うんだけど(マリパの設計はハドソン?)、実際のところどういう意図で開発されたのか知らないし興味あるので知ってたら教えてください。知らなくても違ったら教えてください。
あおぎり高校のマリパ配信:テレサに会ったちよちゃん(千代浦蝶美)が自己決定権を行使することを前提としてみんなが命乞いするお笑い
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