本が好きであるからこその不都合
私は本が好きだ。それも小説が好き。
言葉が紡がれているだけなのに、見たこともない新しい場所へと連れて行ってくれる小説が好き。
なぜ、本を読むことに、こんなにも恋焦がれているのだろう。ふと、考えてしまう。
人に話せるような趣味もなければ、何かにのめり込むこともなく、何に対して興味を持っているのか自分でもよく分からない人生を、私は送っている。
小さい頃から変わらず好きなものは、と考えたときに1番に浮かんだものが本であった。
小学生の頃から、就寝前は本を読むことが習慣で
学校から帰ってきたあと、ご飯を食べたあと、お風呂に入ったあと、宿題もそっちのけで本を読んでいた。
「本ばっかり読んでないで、宿題しなさい」
「本は置いて、お風呂入ってきなさい」
そんな風に母から叱られることが多かったように思う。
今でも、本は私の唯一の希望で、なくてはならない大切なものだ。
この先も、就寝前は本を読むだろうし、時間を見つけては言葉たちを自分の中に取り入れるだろうし、ずっとずっと私の中の柱であるだろう。
しかし、本が好きだからこそ、悩むべきこともある。
本をたくさん読んできたからか、知らずに培ってしまったものがある。
それは、限度のない想像力だ。
この人はきっと今こんなことを考えていて、こんな風に行動したいんだろうな、あの表情の先にある感情は喜びか悲しみか、周りからはこういう人だって認識されていて、それに対して我慢してる部分や良いと思ってるところ、この人は幼い頃こういうことに興味を持っていたのだろうな、
書き出したら止まらなくなってしまう。
人を見ただけで、触れただけで、私の頭の中では目にも止まらぬ速さで想像の言葉たちが駆け巡っている。
もちろん想像の殆どが、事実と異なるだろう。
私が勝手に判断をして、勝手に人物像を作り上げて、勝手に面白がっているだけなのだから。
小説を読んでいて、登場人物の容姿や考え方、物語の中では語られない背景や生き方を自分なりに解釈して作り上げてしまう癖がある。
きっと、読書を嗜む多くの人に共感してもらえるのではないだろうか。
言葉を自分の中に取り込んで、噛み砕いて、新しいカタチとしてできあがったものが被ることはまず、ない。
同じ言葉を目にしても、そこから感じることや浮かべる人物、情景は人の数だけあると私は思う。
だから、想像することって楽しいと私は思う。
ただ、想像することが日常の当たり前だと捉えてしまい、人の陰の部分まで想像してしまうことが
最近は苦しいと感じている。
例えば、友人が誰かと笑い合っているとする。
笑っていて楽しそうだな、あの2人は共通の趣味があるからそれで盛り上がっているのだろう、でも互いに人見知りな部分もあるから、友人は少し気を遣っているように見える、でも場を賑やかにすることに長けているから大丈夫そう。
なんて、勝手に想像をする。もちろん相手の中身を知っていて、そこから事実を汲み取ることもあるけれど大抵は憶測で、人となりを作り上げる。
こういう場合はいい。勝手に憶測をしているが、
私の負担は全くなく、むしろ楽しんで想像をする。
こういう場合ではないとき。
陰の部分を想像してしまうのは意外と苦しくなる。
朝は元気であったのに、夕方、顔を見ると元気がなくなっていた友人がいたとする。
何かあったのかな、くらいは誰でも思うかもしれないが、私は勝手にその先の先を考えてしまう。
これをやっといて、と上司に言われたからやったのに、いざ出来上がったものを見せると、そこまでやらなくても良かったのになんて哀れさを含んだ目で言われ、きっと落ち込んで、自分はどうして上手くできないんだって責めて、何もかも嫌になって、自分のことも人のことも傷つけてしまうような人になってしまったらどうしよう。
私はこれを結構本気で考えてしまう。
正解なんてものは分からないし、本人はそんな風に捉えてないだろうし、取り越し苦労と言う言葉がこんなにも当てはまるのかという状態である。
想像力が人一倍ある、なんてことを言うつもりはない。想像よりも妄想に近いのかもしれない。
これは長所になることもなければ、趣味といえることもない。
自分のことで精一杯であるはずなのに、人の感情まで勝手に背負って、自分の心の範囲を超えてしまう。
無意味なこと、とは分かっている。
この想像力が何かに活かせないだろうか、と思う毎日だ。
勝手に想像して、私まで苦しくなって、いっぱいいっぱいになって、何もかも投げ出したくなる。
本を読んできたからこそ、言葉の偉大さを知って、それらが私たちにどんな影響をもたらしているのか、それは知っているつもりだ。
だから、言葉は丁寧に使いたいし、自分の武器として持ち続けたい。
本が好きだからこその不都合は、まだまだありそうだ。
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