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今日も書こう
先日のnoteで「本当はアイディアが新鮮なうちに一気呵成に書き上げてしまえればいい」と書きました。
でも実際のところ、これは理想論であって、文章という物理的な生産量に限りのある表現媒体をあえて選んだ以上、音楽を演奏するようには、定められた時間内に定められた音数で美しい表現をすることは叶いません。長編になればなるほど、間を置いて書き継がないことには、いずれどこかで破綻してしまう。
文章の執筆を音楽の演奏と同じように捉えて、いわゆる「憑依型」というんでしょうか、演奏・演技するようにライブ的に書いてみようとするアプローチは、間違いであるとまではいえませんが、表現媒体との親和性という意味では、限りなく効率が悪いと思われます。
文章に天才はありません。日々の積み重ねと努力と論理構成力、それだけです。
音楽は時間の芸術ですが、文章はそもそも時間の芸術ではありません。小説の冒頭に「♩=120」などとBPMの指定がありますか? リタルダンドやア・テンポのような緩急の指示がありますか? クレッシェンドやディミヌエンドのような強弱記号がありますか? グランディオーソ(壮大に)とかカンタービレ(歌うように)のようなイメージの規定がありますか?
ないですよね。なんなら、いちいち読みかたに注文をつけられるなんて大きなお世話だと感じる読者がいるかもしれません。だから、文章は作曲とも異なります。楽譜を書くようには文章は書けないのです。
文章は、たった一文で時を進めることもできれば、遡ることもできる表現媒体です。読むスピードが読者によってまちまちなら、理解力にも個人差があります。読者Aにとっては流麗な音楽のごとく聴こえるシーンが、読者Bにとってはまだるっこしくて退屈な言葉の羅列にしか見えないことは、充分にありえます。
もし小説を通じて時間芸術の表現をしたいなら、プロのナレーターや声優に朗読してもらうほかありません。あるいは映像化か、舞台化か。いずれにせよ、換言すれば、時間芸術は時間芸術の専業の方にお任せすればいいのです。
であれば、さまざまな読者を想定した最大公約数的なところで、文章が目を通じて読者の脳に結節するまでの仕組みをミクロな視点から解析してみたいというのが、私の考える「小説のメカニクス」でもあります。
コツコツ、コツコツ、ミクロな努力の積み重ねでしか文章は成り立ちません。今日は原稿用紙にして1、2枚しか書けなかったとしても、ゼロよりはマシです。
とにかく書いて、書いて、書くこと。
書くことに行き詰まったら、そう、たとえば『映像研には手を出すな!』を見ましょう。
1枚1枚、コツコツ、コツコツ、なんて途方もない表現をしているのだと畏れ多くなります。アニメもまた時間芸術であり、小説とは異なりますが、なにかを表現したいという熱意は同種です。きっと活力をもらえると思います。
今日あなたは何枚書きましたか?
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