短編小説「常世の暁」(5900字程)
地球の自転が止まり、太陽がその動きを止めた。昼だった地域は二十四時間の間煌々と光り輝く太陽に照らされ、一年を通して夏の気候となり眩しく光り輝く夏休みの国となった。夜だった地域は明けない夜に閉じ込められ、寒冷化に伴い永遠に降り続ける雪に覆われた。夕暮れだった地域では、一部の人々がビルの屋上から身投げをし、残された一部の人間によってたくさんの詩が作られた。二十四時間夕焼けを見詰め続けると、時に人は狂ってしまうらしい。あの夕焼けは人の胸に様々な不思議な感情を呼び起こすのだ。
そして私が暮らしているのは、そういった、夕暮れの街だった。
私は昆虫学者で、永遠に続く夕焼けが昆虫の生態系に及ぼす影響を調査していたが、ここ数週間はひどい体調不良に悩まされており、研究の進捗はほとんど絶望的と言って良かった。私は日々鉛のように全身にまとわりつく倦怠感を持て余していた。私の精神はひどく衰退し枯渇しており、そういった悲観的な視点を介して眺める未来は灰色よりも憂鬱な色合いで以て私の眼前を塞いでいた。
これもまた、尽きることのない夕焼けの及ぼす作用なのだろうか。
似たような症例は既に多数ネットで報告されていた。
そんな折、私は既存のどんな蝶の翅にも見ることのできない、極めて美しい色合いをしていると言う新種の蝶の目撃情報を耳にした。当初こそその存在を、昆虫学者として私は疑っていた。そんなものは、夕焼けが人々を錯乱させた結果として生み出された幻覚をその根拠にした都市伝説の類なのではないか、と。
しかし、それと同時に、もしもそんな色が実在するとしたら、という可能性に私の胸がさざなみ立った。もしもそんな色が実在するとしたら、生きている間に、一度でもいいからその色をこの目で確かめてみたい。誰かが聞いたら嗤うかもしれないが、私はそこに一縷の望みのようなものを感じた。大袈裟に言うなら、それは私にとって縋り得る、生きる希望なのだと言えた。私は重い扉をこじ開けて外出を繰り返すようになった。路傍にまだ見ぬ蝶の色を求めて、私は茜色に照らされた街並みをあてもなく歩き続けるようになった。
私の母は、優しい女性だった。それ以上の言葉も、あるいはそれ以外の言葉も彼女には相応しくないと思う。そんな母を、私は私なりに好いていた。しかし彼女は、世界がこんなことになる前に他界していた。残された父もまた病に犯され、この街の病院に収容されていた。父の体を蝕む病の正体を私は知らなかったが、死期がそう遠くないことは医学に疎い私の目にも明らかだった。日に日に衰弱し痩せ細っていく父を、しかし私は何もすることもできず、ただただ週に一度だけ、私は父が収容されている病院を訪ねる。病院の廊下に漂う消毒薬の匂いを嗅ぐと、いつも私は死を連想する。正体の知れない、しかしそこに儚くも存在する死について連想する。ここにはきっと無数の生と死が行き交っていて、もしも生きることが様々な記憶や体験によって汚れていくことだとしたら、死はきっと世界で一番清潔なものに違いない。だから、人間は死に近づく程、病室の真っ白いシーツの上で少しずつ漂白されていくのだ。
愛煙家だった父の体からは、もうなんの匂いもしなかった。
病室の窓には厚手の遮光カーテンが引かれ、天井に配置された蛍光灯が乾いた光を放っており、病的なまでに清潔な感じのする雰囲気を漂わせていた。父は私に気付いても、いつもの如く何か大きなものを諦めてしまった人間のような表情を浮かべながら遠い眼差しで宙の一点を見詰めている。私も私でこういった時に気の利いた明るく陽気な言葉を嘯く器量を持たないため、この奇妙な面会時間は往々にして沈黙の占める割合が多い。どれくらいの静けさが漂っただろうか。父はふと、私の方には目もくれず、ただただ独り言のように呟いた。
「虚しい人生だった」
その瞳は弱々しく白濁し、顔面は蒼白く、淡いグリーンの入院着とのコントラストが残酷なまでの儚さを演出していた。死期を悟った人間にかけてやるべき言葉など私には持ち合わせがなく、私はただただ父の顔を見詰めていることしかできなかった。どこか儀礼的な感じのする時間だけが、静まり返った病室を流れていくのだった。
私に友人はいなかったが、孤独に居心地の悪さを感じたことはなかった。むしろ、私は孤独によって安寧を手に入れたとも言えるかもしれない。代わりに、胸の奥に蟠る感情を自分以外の人間と共有する機会を失った。同居人は物言わぬ昆虫の標本だけである。揺らぎの介在しない生活の中で、安寧が一転、徐々に私の首を締め付けていたのを感じることがある。そういう時、私という吹けば飛ぶほど軽い人間はあまりに無力だった。
ひぐらしが鳴いていた。夜も朝も訪れない夕焼けの街だが、彼等だけは本来の夕刻に沿ってどこか物寂しげな音色で鳴く。終わることのない茜色の空は既に見飽きて久しいが、日ごと訪れるひぐらしの澄んだ鳴き声は好きだった。私は例の蝶を探しつつ、ひぐらしの鳴き声を聞きながら、当てのない時間を潰すようにデタラメに道を歩き続けていた。一時間ほど歩いて、そろそろ帰宅することにした。
散歩が徒労に終わった虚しさが、暁の空と否応なく化学反応を起こし、私の胸は喪失感で満たされた。そういった精神状態に陥るとき、私が頻繁に思い起こすのはかつての恋人だった。私にもかつて恋人と呼べる女性がいた。私たちは将来を約束していたが、我々の先に待ち構えていたのは永遠の夕焼けだった。彼女は賢明にもこの街を去った。彼女との連絡はそれきりとっていない。
帰宅し、私は食事の支度を始めた。と言っても献立はいつもと同じ、冷蔵庫に備蓄してある業務用冷蔵弁当である。冷蔵庫を開き、平積みにされた弁当の容器を一つ掴み上げると、冷蔵庫を閉じた。そのまま電子レンジを開く。冷えた弁当を入れる。スイッチを押す。ぶーん、という音を立てながら弁当が淡い茜色に照らされて回転する。我ながら貧しい食生活だとは思うが、それを不快に思う感性はとうの昔に摩耗していた。
弁当を食べ終えると、私は居間の中央に置かれた一人掛けのソファに深々と座り込み、サイドテーブルに置かれた特製の煙草を咥え、父から貰った年代物のライターで先端に赤い火を点した。胸いっぱい煙を吸い込み、ライターを絨毯の上に放り投げると、数秒の間だけ息を止めてから、出し抜けにふーと白い煙をゆっくりと吐き出した。様々なパターンの濃淡を描きながら透明な空気と攪拌されていく白い煙の向こうで、壁に掛けられた無数の昆虫の標本が音も立てず、微動だにせず、静かに眠りに付いている。私は妙に落ち着き払った眼差しでそれらを見詰めている。私は何を失ってしまったのだろう。何ら具体的な輪郭を帯びない物思いにたっぷり時間を費やしてから、私は再び煙草に口をつける。煙を思い切り吸い込み、先ほどと同様の手順で肺に煙を留めてから、数秒後にふーと吐き出す。少しずつ意識の外殻が熔解していくのを感じる。
深い無意識の長い航海を経て、気が付くと私はモノクロームの世界に迷い込んでいた。私を取り囲む、どこか異邦めいた街並みにはおよそ色彩と呼ばれるものが完全に欠落しており、灰色のコントラストで世界のディティールが構築されていた。人の気配は途絶え、絶対的な静けさが周囲に漂っていた。自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。空を見上げると、そこには茜色の輝きなどはなくて、ただただ色褪せたグレイの空がどこまでも広がっていた。私はどれくらいの間、そこに呆然と立ち尽くしていただろうか。意識がひどく曖昧で、頭が異様に重たく、ろくに考え事もできない状態でいた。それから私は、しばらく経ってから、不意に体が動くことを思い出したかのように、よたよたと見知らぬ通りを歩き始めた。私はそこに不気味で陰鬱な雰囲気を強く感じ取った。それらはおよそ人間的なものを拒絶するかのようなある種異界の如き景観を表していたが、それは人間にとって往々にしてひどく魅力的なものに見えるのである。拒絶と誘惑の見えざる手が、まるで私の体を引っ張っているかのようだった。私はぐらぐらと周囲を見回しながら、当てもなく歩き続ける。彷徨えば彷徨うほど迷宮の中心部に迷い込んでいくかのような感覚を覚えるのに、それでも、こめかみに鈍い頭痛を伴ったデジャビュのような感覚がどうしても振り払えない。
やがて私は何度もこの街を訪れたことがある、という事実に気付く。
不意に意識が鮮明になる瞬間が訪れる。
そうして、それがいつもの悪夢であることを認識するタイミングで、私は目覚めた。
かつて朝日と呼ばれていた夕日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
目覚めは例によって最高とは言えない気分だった。夜が夜であることをやめ、星の瞬きを忘れた今、この街に図太くも無神経に平和な安眠を貪れる人間がどれほど残っていることだろう。
蝶の捜索は難航していた。私はその実在性を疑い始めていた。それでも私が当てもなく夕焼けの街を歩き続けた理由は、そこに希望を感じ取っていたからに他ならない。例えそれが蜃気楼のように不確かなものでも、私には縋る対象が必要だったのである。それは私がかろうじてまだ生きる理由でもあったし、それと同時にこの世と私を結びつける最後のよすがとなる蜘蛛の糸とも言えた。
私が深々と座り込むソファの傍らには小テーブルが設置されており、その上には銀色のヴィンテージ風の小振りな灰皿と、真っ赤な、どこか懐かしく、それでいて悪趣味な感じのする塗装のされた電話機が乗っている。友人などおらず、およそ社会というものから隔絶されている私にとってその呼び鈴は不吉の象徴でこそあれど、決して心安まる知らせではなかった。そんな赤い電話機が鳴ったのは数日後のこと。病院からの電話であった。そこで、私は父が死んだことを知った。
人間が死んだ後の手続きは慎ましやかにも粛々と、そして何より事務的に進んでいった。この街は既に人間の死を特別視しなくありつつあるのかもしれない。そういった儀式が滞りなく進むその間、私はなぜだか涙を流すことができなかった。なぜだろう。その理由は分からない。私はただただ質量に乏しくも体積のかさむ感情の正体を掴みあぐねた状態のまま、父の最期を見送った。骨が焼かれる。私は血溜まりのように赤い夕空に聳える煙突からもくもくと黒い煙が吐き出されていく光景を頭の片隅に思い浮かべる。
私は父の骨壺を手に帰り道を歩いた。
そして帰宅した時、馴染みの静寂の中に列記とした事実として存在するある種の確信が私を襲った。私は全ての肉親を失い、この茜色の街に一人取り残されてしまったのだ。私は骨壺をテーブルに乗せると、いつものソファに崩れるように座り込んだ。そして力なく、壁に掛けられた虫の標本を眺めた。鋭利なピンで胸部を串刺しにされ、腐敗することも朽ちることもなく永遠にその亡骸を残し続けるその姿が、父の骨壺に重なった。今の父にはあらゆる葛藤も存在しないだろう。そんな在り方が、私にはたまらなく羨ましかった。少なくとも今の私の精神状態にはそれが救済のようなものに感じた。しばしぼんやりと時間を潰してから、私はいつもの煙草に手を伸ばす。大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。白い煙が宙をゆらゆらと漂った。物思いの泡に似て、ふわふわとふやけながら透明に飲み込まれていくその様を、私は見詰めていた。
例の蝶は死神の類いなのではないかという噂を私はネットで知った。つまりそれは、死を目前に控えた人間の前にのみ現れる幻影なのだ、と。言い換えればそれは、蝶を見つけた人間は遠からず死んでしまうという不気味な予感めいた事実の裏返しと解釈することもできた。だとしたら、今の私にはそれが見つけられるはずだし、見つけたとしても何ら問題がある訳ではない。私の心は既に、それほどまでに死を肯定していた。私は煙草の火を灰皿で磨り潰し、ソファから起き上がると、部屋着のまま扉を開けて散歩に出かけることにした。
それからどういう道を歩いたのかは記憶にない。
近所は既にくまなく歩いていたとは言え、歩いたことのない道の一本や二本はあるものだし、そこから全く知らない交差点をデタラメに歩き続ければ、迷子になったとしてもおかしくない。どれくらい彷徨っていただろう。どこか現実味の乏しい夕日は時間感覚をひどく曖昧に間延びさせる。そこで、私はあまりにも唐突にではあるが、例の蝶を発見した。なぜその蝶がこの街にありふれたただの蝶ではなく、私が探し求めていたまさにその蝶だと即座に分かったのかと言うと、言うまでも無い。それほどまでに美しい色合いを私はそこに見たからである。その翅の色彩のあまりの美しさに私はたちまち心を奪われた。それは言葉にできない類いの美しさだった。あらゆる色にまつわる名前を並べ立てた所で、あるいは私の乏しい詩的感覚を駆使して表現を積み重ねた所で、その美しさを形容し得るとは到底思えない。私は心の底から、今に至るまでの人生を感謝したい気分になった。それはとても心地よいものだった。そして私は大して苦労をすることもなくその蝶を捕獲することに成功した。蝶は大して抵抗する素振りも見せず、私の虫かごに静かにおさまった。
私は帰宅した。
そして、早速作業に取りかかることにした。
この美しい色彩には人の魂を救済する力がある。この美しさを後世に残さねばならない。私は強くそう思った。そして、その蝶を標本にすることにした。
私は細心の注意を払いながら翅の形を整える。
そしてピンを胸にそっと突き刺す。
そのピンが蝶を貫いた瞬間、翅に表れていた美しい色は薄れ、退屈な灰色だけがそこに残った。
これ以上生きることになんの意味があるだろうか。どんな必然性があるだろうか。この街は観光客にとって(そんな物好きがいればの話だが)表向きは美しい斜陽に照らされた世界だが、その実態は生きながらにして内部から腐敗を始め、それでも尚完全な死という平穏を受け入れることが出来ずにいる非常に曖昧で不安定で不完全な世界なのだ。そんな有様が自分の人生と重なった時、私は自ら命を絶つという選択肢に具体的な希望を見出し始めていた。死んでないから生きているだけ。そんな消去法的な思考回路で定義される人生に何の重みがあるのだろうか。そもそもなぜ今まで、自殺という道を選ばなかったのか。無意味に目覚め、無意味に呼吸と食事を繰り返すだけの血と肉で構成された歯車に、それでも尚明日を、明日の生を求める必要などあるのだろうか。未来が明るくなる見通しなどは微塵もなかった。文字通り斜陽のまま、少しずつ様々なことが悪化し醜くなっていく確信めいた予感だけがあった。
そうして考えることに疲れた私は、オサラバすることにした。
願わくば私の亡骸に然るべき防腐処理を施した後、昆虫の標本の隣に飾って欲しいと思う。それだけが、いやそれだけを生きた証に、私は常世へ旅立つのだ。小テーブルに蒼色をした大量の睡眠薬が転がっていた。
そうして、私は今、眠っているのだろうか。
悪夢という言葉でしか形容のできない光景が眼前に広がっていた。妙に意識が冴えている。私が迷い込んだ夢は、地獄の様な色彩で充満していた。紫色に糜爛した夕焼け、玉虫色に輝く蝿、原色の廃墟、静脈の裂け目から滴り落ちる液体はモルフォ蝶の翅のように蒼かった。色相のスペクトラムはここが既に地獄である可能性を示唆している。私は手首を押さえながら何時間も彷徨っている。
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