建築家 大谷幸夫と金沢工業大学
金沢工業大学1号館(本館)。戦後の建物として初めて重要文化財に指定された広島の平和記念資料館でも知られる、建築家の大谷幸夫作品だ。
DOCOMOMO Japanから「日本におけるモダン・ムーブメントの建築226選」に選定されている。
自身の代表作のひとつ、国立京都国際会館完成後、コミュニケーションは会議場ではなくロビー活動にあるとみてとった大谷は、この金沢工業大学本館(1号館)で、学生、教職員がコミュニケーションができる場として大きな室内広場を具現化した。
当時、世の中は東大安田講堂事件など、学園紛争で揺れていた中で、大谷は東京大学の教員として渦中にあった。
金沢工業大学は「人間形成」「技術革新」「産学協同」を建学の精神に掲げ、1965年、開学した。「科学技術の力は強大である。だからそれを扱うものには人間形成が大事である」という考えのもと、「人間形成」を筆頭に掲げた。
そして人間形成の場は教室のみで行われるのではなく「常住座臥」、つまり授業や課外も含む学生生活そのものも含まれるという考えのもと、学生と大学は対立するものでは無く、学生、理事、教職員を三位一体ととらえ、1号館(当時は本館)建設では、コミュニケーションをはかれる場の実現を創設者から求められた。
1969年に完成した金沢工業大学本館は、内部に広場として大空間を作った。そしてこの広場を通らないとどこの部屋にも行けない設計であった。
大谷はこの1号館が完成した後、胃潰瘍の手術を受けたと言われている。
だが、以後の金沢工業大学の建屋はすべて、廊下などの空間は面積の30%を占めるよう設計され(通常は10%と言われている)、学生が勉強や議論などでキャンパスに居くなるような居心地の良いキャンパスを実現したのである。
本館(1号館)完成後も大谷は金沢工業大学のキャンパスの設計を手掛け、ライブラリーセンターが完成した1982年、キャンパス北校地全体が日本建築学会賞(作品)を受賞した。