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薄明薄暮性毛筆記 

 ふうっと息を吐き、頭上を見上げると、暁の空はそれはそれは美しい。湯気ははたしてあの雲まで届くのだろうかと目を凝らしてみる。しかし、その行方を最後まで追うことはできない。
 芯まで温まった体に纏わりついた水気を払い、しわの寄った浴衣を羽織る。部屋に戻ってマッチを擦ると、ものの数秒で紫煙が昇りだす。露天から上がる湯気とはまた違うかたちの煙はやがて天井に達した。ぼんやりと天井を眺めるうちに、湯上がりの心地よさも相まって瞼が落ちる。

「お侍さん。ご飯ですよ。お侍さん」
「おっと。居眠りをしていた」
「お侍さん、また夜明けにお風呂に行ってらしたんでしょ」
「まあな。空の色が好きでついな。それよりも女将、お侍さんはよしておくれ。小生はもう侍ではない。何遍も言っておろう」
「そんなことおっしゃってもほら、腰にご立派な」
「これか。この腰差は父の形見故身につけているだけのこと。それに侍の時代はもう終わった。物怪でも出ぬかぎりはこれを抜くこともあるまい」
「それは失礼。では朝食はこちらに置いていきますのでゆっくりとお召し上がりくださいね」
「かたじけない」
 お膳の上の漆塗りの器には鰯が三匹。そしてまたたびの枝が一本添えられている。
 旅の道中、疲れを癒す滋養になればと立ち寄ったこの温泉宿。ほんの一泊のはずが気付けばもう半月も経ってしまった。
 食後のまたたびを咥え、袴に着替えてから、女将が作ってくれた抜け穴をくぐり外に出る。
 一歩外に出てしまえば皆私に温かい眼差しを向ける。またたびや猫じゃらしをくれる者もそれなりにいる。しかし鼠だけは勘弁してもらいたい。まあ袴を着て刀を差した猫が宿の敷地を歩き回るのは、客にとっては物珍しくさぞ面白いのだろう。
 いつもの草むらで食後の余韻を引きずってうとうととしていると、ぽつりと頭に雫がたれた。見上げると雨がしとしとと降り出していた。そういえばあの日も急な雨だった。
 あの日、旅の道中で急な雨に見舞われた。ぬかるんだ道に足を滑らせた私はひっくり返るように宙を舞った。頭を打ったのだろう。どのくらい気を失っていたのか定かでないが、目を開けると私は女将に抱えられていた。ずいぶんと頼もしい女将だと思ったのも束の間、細い腕の中で丸まる自分の両足を見た私はすぐに理解した。猫になってしまったのだと。
 女将の好意で離れの部屋に泊めてもらったのはよかったが、あまりの心地よさについ居着いてしまった始末だ。ここだけの話、猫である私がこの宿に泊まっていることは仲居すら知らない二人だけの秘密なのである。
 毎日のように私は何故猫になったのか考える。若い頃にずいぶんと危ない橋を渡った。人を斬ったのも数知れず。こんな姿になったのはその報いなのかもしれない。そういえば人斬り寛治と恐れられた馴染みの寛治が姿を消してから、奴の空き家に野良犬が住み着いていたのを思い出す。あの野良犬はひょっとして、なんて馬鹿なことも考えてみる。それはさておき、いよいよ最近になって、私は初めから猫だったのではないかとも思い始めた。生まれながらに言葉を操る不思議な猫なのではと。いずれにせよ真相は未だ見えず、できることといえばこの四つ足としての天寿を全うすることくらいか。
 部屋に戻ると机の上に紙の束と筆が置かれていた。そして書き置きが添えられている。
『お侍さんに申しつけられていたものを準備しておきました』
 いかにも几帳面な字。
 手元の紙を畳んで大事に胸元へ忍ばせる。
 さて。
 煙管に火をつけ、筆を握った。
 これを機に自身の半生を書きつらねてみることにした。これまでずっと時代のうねりの中に身を置いてきたのだ。少しくらい立ち止まって、この桃源郷でゆっくりと心の内と向き合ってみるのも悪くないだろう。
 窓から望む遠くの茜色に向かって私はふうっと煙を吐いた。

 天井から伸びる糸が灰皿の上でぷつんと切れる。途端に糸はほぐれた。
 僕はペンを置いた。
 ふう。そして最後の煙を吐き出した。
 さて。
 続きは一風呂浴びてから。

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