「どうせ」という心の保険をうしなった広汎性発達障害の私の話
子どものころはいろいろなものに興味を持つものだ。私は障がい特性も相俟ってたくさんのことに気を取られたり欲しがったりした。
そのたびに大人にそれが欲しいというのだけれど、うちは石油王でも富豪でもない田舎の家だったので、当然すべて望み通りとはいかない。
だから諦めなくてはいけなかったり、我慢しなくてはいけなかったりすることがたくさんあった。
ねだっては断られ、望んでは窘められることが続くのは強いストレスだったし、だんだん諦観も入ってくるようになる。
いまならば障がい特性のようなものだとわかるのだけれど、当時は自分がうまく物事を諦めたりこだわりを捨てることができなかったので「どうせダメなんだろうな」と思いながらもねだっていた。
それは断られたときのショックを軽減するための保険のようなものだったのだが、次第に「どうせ無理だろうけど」と枕詞のようにつけるようになった。
それが習慣化してしまっていたある時、母に強く「『どうせ』という言葉を使うな」というような注意をされた。
聞く方からすれば気持ちのいいものではないし、正しいしつけだと思う。
その他にも母は誤解されないような言葉の選び方を教えてくれたし、そのときの自分も素直に「ああ、良くない言葉なんだな」と理解した。
もちろん叱られているのだから楽しい気分ではなかったけれど。
しかし、今思えば子どもの頃のそういった注意はしつけと同時に言葉狩りでもあった。
「言ってはいけない」はイコール「思ってもいけない」と刷り込まれてしまった。
大人になって「思っても表に出さなければ大丈夫なこともある」と学んだけれど、それができるほど自分を御せるようになったのはずいぶんと最近のことだし、それですら完ぺきではない。
だからこそ、はじめからしなければいいし、思わなければいいという結論に達するのだ。
私は「言い訳」は悪いことだと思っているし、「決めつけ」も好きではない。
自分にも他人にもいわゆる「甘え」を赦せなくなってしまった。
今はだいぶマシになったが、一時期は愚痴も言えないし、失敗は悪だし、人に迷惑をかけることは恐怖の極みだった。
極端に結論付けてしまうのは過去の経験かもしれないし、特性なのかもしれないけれど。
それらの抑圧からくるストレスが蓄積され、しんどさを抱えきれなくなってしまったとき、必死に作り上げた社会人としての仮面が発揮している対人スキルは全て無効化されてしまうのだ。
感情が爆発して人に当たるのではない。うつ病患者は、特に私の場合は、動けなくなってしまうのだ。
「行かなくては」「やらなくては」と思うのに動けず、ぼーっとしてしまい、そのうちに間に合わないタイミングになってしまう。
そして「ああ、できなかった」という思いがさらに自分への呵責となって悪循環、というわけだ。
だからといってあのとき母にすべてを許容してほしかったとは思わない。
母は私に大切なことをたくさん教えてくれたし、今でも支えである尊敬すべき存在だ。
だから必死に子育てを頑張ってくれている世の親御さんたちに「言葉狩りはやめよう!」なんて主張するつもりはない。
ただ、こういう経験をしたことがある人間は私のほかにもきっとたくさんいて、「なんで自分はこうなんだろう」と嘆いているのだとしたらあなただけじゃないんだよ、似たようなことでしんどい人もいるよと言いたいだけだ。
そして「しんどい」と言ってもいいんだよ、と言いたいだけだ。
自分を守るために逃げるのは悪ではないのだ。それがどんな逃げ方であれ、自分で自分を殺すことになるよりましだ。
こうやって、ともすれば自分が恥と思ってしまうようなことを書き連ねているのは、理解して優遇してくれというよりも、ただ知ってほしいという思いからだ。
このノートに関しては本当に覚書というか、こんなこともあるんだなあくらいに目を通してくれれば嬉しいなと思う。
トリセツみたいな、こうしてくれると嬉しいな、というお話はまた今度、調子のいいときに書ければいいなと考えているので、暇を持て余したときにまた覗いてみてほしい。