「国語力を高めたらいいのに」と思うこと

ここんとこ生活リズムが滅茶苦茶で、動ける時間帯が予測できない。じつは今、モーレツに眠いのだが、夜の10時という半端すぎる時間なので、寝るとおそらく深夜覚醒してしまう。それで記事を書くことにした。

さいわい、過去にタイトルだけ書きかけてお蔵入りしてた下書きを見つけたので、続きを書いてみよう。

ここ数年〜十年くらいのうちだろうか、ずいぶん日本にも外国人が増えてしまった。米国留学経験のある私は、当時「国際人」を気取って、いわゆる意識高い系、今でいうポカホンタス男みたいになっていた。

ここから何故かヘイトスピーチが入るので読まれる方はご注意ください
まずかったら引き返してください


しかしだんだん自分が体こわして働けなくなると、「自分の国」に健康なガイジンどもが増え、特に悪さをする者が目立つのでイヤになって今に至る。私はウヨクサヨクみたいなものを知らないというか、自分は中庸派だったつもりだが、歳を取るにつれ、たとえば酷いベトナム人の事件だのを見るうちに彼らが嫌いになってきた。

まあこれは、実際には彼らが悪いというより「日本人の奴隷として」安い労働力でこき使う、ということを政府が進めた結果なので、彼らは被害者なのだろう。と、これ以上こちらを広げると収拾がつかないので話を戻すことにする。

海外かぶれだった私は、英語力が高いと良い、なぜなら世界的なスタンダートになっているので、何かと便利だ。と考えていた。それも今思うといわゆる「意識高い系」の発想で、あまりものを知らなかったと今は思う。

しかし、社会人を経験するにつれ、もっと痛感したのは、自分を含め、日本人全体が、英語どころが自国語をまともに使いこなせていない、ということだった。

まずエッセイを書いていてわかるのだが、私は日本語が下手だ。これは少し言い訳すると、アスペルガー特有の「枝葉が細かすぎる」思考回路のせいでもある。ので、文章力の低さ、という部分もあり、たとえば仕様書などを書く場合は逆に細かすぎる必要がある。

少なくとも、私は「自分の思っていることを(枝葉も含めて)余すところなく言語化する」能力には長けているので、冗長であっても、言いたいことを言い切れるだけの自信はある。「行間」も書いてしまうので、味わい深い書き方は苦手だ。

それはさておき、過去に私はシステム屋(ITエンジニア)をやっていた頃があり、そこで痛感したことが多い。プログラミングというものは、基本的にあらゆることをパソコンに、こと細かに指示しなくてはならない。コンピュータに「行間を読む」なんてできないので、必要以上?に書く必要があるのだ。

たとえば、簡単な足し算をするにしても(c++の疑似コード)

int a;  // 「a」という名前の整数が入る箱を用意
a=0;  // 箱の中身を「初期化」する(必ずしもしなくて良いが、基本的にする)
a=2+3; // aの中に「2+3」の結果つまり5を入れる
cout >> a; // coutという出力命令でaの値を出力(「5」が表示される)

こんな感じにけっこう手間をかける。さいわい、私のようなアスペルガー思考と、コンピュータ言語というのはけっこう似ているところがあり、コンピュータは、言われたことをすべてするが、言われないことはしないので「行間」が読めない。

たとえばcとかc++と呼ばれる言語では、int a; と書いて「aという箱を用意する」という「宣言」が必須なのだ。その「aを使いますよ宣言」をせずに唐突に「a=2+3」と書いた場合でも、人間なら文脈を読んで「aという箱に2+3を入れるんだな」って何となく察するが、パソコンは「いきなりaが出てきたが何だこれは?」と怒ってくる。(ただし、こういう宣言を、新しい言語では略することができるように、人間寄りになってきたが…)

余談が過ぎたが、今回は時間つぶしと眠気とばしなので、あえて冗長に書いている。ともかく、こういう部分で、私の「くどくど細かく説明する性格」は、プログラミングには向いている。

また、仕様書、つまりプログラムの設計図も、10画面あるWebページなのに、設計図が1ページしか無かったら意味がわからない。ので、そういう部分でも、細かくなければならない。

私のエッセイに枝葉が多く、日常会話もそうであるのは、もともとアスペルガーであるのに加え、職業病みたいなところもたぶん関係して、アスペが悪化した気がしている。

で、ようやく話を戻すのだが、日本語力の重要さのことだった。

たとえば、仕事の上で、人が指示を出すときに「アレをコレしといて」みたいに言われると意味がわからない。上にプログラムを書いたが、aという数字を入れる箱では「a」だと何の数値だかわからない。

たとえば、携帯電話番号を記録する箱を用意するんだとしたら、プログラムではCellNumberとか、「ひと目見て、意味が分かる名前」を付ける。(基本的には箱に英字で命名するため、英単語を使ったりする)

また、データベースを作るとして、人名欄をNameにすると「何の名前だかわからない」のでUserNameなのか、FirstNameなのかLastNameなのか、そういう風に、「分かる名前」にするのが基本的なルールだったりする。仮に名前を入れる箱を「a」としても通じるのだが、それだとプログラムを読む人が「このaって何が入る箱なんだよ」となってしまうからだ。

まずいな、日本語の話のはずが、プログラミングに脱線しすぎた。

まあいい、今回は「売れるためのエッセイ」でもなければ「エンタテインメント」でもなく、単に私が時間をつぶして、23時くらいまで目を覚ましていればいい目的だから、むしろ冗長がいいのだった。

たまたまプログラミングの規則を例にしているが、ともかく「指示とかの意味が他の人にも伝わるのが重要だ」ということが言いたかった。

別にプログラミングに限らず、あらゆる仕事がそうだと思うが、わかりやすく「ものづくり系」で書いているだけのことだ。

買物サイトを作るとして、買い物かごの「動作」をどのようにしたいか、という設計を書くには「商品がこのあたりに出てきて、個数を選ぶプルダウンがあり、個数は1−9まで(あるいは在庫を見て在庫の上限まで)選べる。個数を選んでから「買い物かごに入れる」を押すと、その商品が、指定個数ぶん、かごに入った画面に移動する」みたいな指示がいるわけだ。

まぁ設計書の場合、画面の図とか、それに矢印が入ったり、ボタンを押したらどういう動作をする、みたいな指示が書いてあったりして、それが「設計図」になる。ややこしいのは、建物などの静物を作るのと違って、Webページなどは「動的」なので、図で書くにしても「プルダウンが1−9まで動く」とか、7を選んだらどう変わる、とか「変化」を図に表現しなければならない。

必死で文章化しているが、読者がついてこれているか私にはわからない。

細かい意味は通じなくてもいいが、ともかく、商品を7つ選んだら、かごにそれが7個入っているという設計にしたい。みたいな、こと細かな指示がじっさい、必要になる。

プログラミングのことばかりになったが、別の業種だってそうだろう。「いついつまでに、商品Aを60個、1個あたり3000円で入手するように」とか、工場なら「ネジBを3時間で2000個、Bの形はこのようで、精度は不良品の混入率1%以下に収めたい」とか決まった何かがあるはずだ。

たまたま私はIT系の仕事が多かったので、そっち系で書いているが、ともかく、上に書いたような「目に見えない動作」などについて、ひとは伝えるのがとても下手だったりする。

たとえば大工仕事で「適当に釘で留めといてくれ」とか「本数、間隔、太さは見て覚えろ」と言われたら正直、効率が悪いだろう。(私はそのへんがわからないが、この時代でもそういう職場もあると想像する)

1mの角材を固定するにあたり「最もフチ側から初めて20cm間隔で6本の釘を使う、釘は5寸釘である、釘は垂直に打ち込む」とか、「具体的な指示」があったほうが「適当に留めといてくれ」とか「見て覚えろ」より、わかりやすいはずだ。

※ 絵とか、寿司を握るとか、言葉で伝わらない分野とか「見て覚える」が重要な職務もあるだろうから、それはそれで、今回そういうことが言いたいわけではない。

私が言いたいのは「適切な指示は言語でできたほうがいい」という部分だ。

これまた身近な例を出してみる。美容院の注文を、読者はどのようにされるだろうか。場合によっては写真を持っていけばいいが、私はたとえばこんな感じだ。

「顔がタテに短いので、なるべく縦長に見えるようなシルエットにしてください。あと、横が広がるとかっこ悪いので横は抑えられるように。パーマは、顔の頬骨が高いので、それを目立たせないように、ちょうど頬に掛かる部分(「このへん」と言いながら指をさして)にウェーブの内側が来て、頬が隠れて丸顔が面長に見える感じにしてください。ウェーブの大きさとしては、額から頬までが1つの波で5cmくらい」

まあ文字で表現したので、実際には何センチまでは言わずに、手で「これくらい」とやるだろうけど、ともかく漠然と言われるよりはたぶん伝わるはずだ。

ものすごく無駄な例示ばかりしたので、本質が吹っ飛んだ気がしているが、無理矢理戻そう。

どんな仕事でも、けっきょく「何をしてほしいか」「どんなことを期待しているか」などの指示は、言葉や図ですることになる。また、今回たまたま仕事に絞って書いてしまったのだが、家族や結婚関係についても同じ。

「言葉によるコミュニケーション」の力が、人間全体に圧倒的に不足しているのだ。ある旧友が、夫婦生活が冷めてしまっている。と嘆いていたので、私は「奥さんに、言葉に出して具体的に褒めてみたらいい」と伝えたのだが、彼は決してそれをしない。馬鹿者め。

うちの両親もそうだが、互いにけなしこそすれ、褒めているのを見たことがない。

これはちょっとした自慢なのだが、というか、私も良い人に巡り合ってそこから学んだのだが、私はわりと人の長所を褒めるようになった。

というのは、母のことを「実の姉のように慕っているところの小母さん」がおり、その人が、私と会うたびに、何か気づいてパッと言ってくれるのだ。

たとえば長髪にして、侍結びにしていたら「獅子くん、それすごいオシャレ、かっこいいじゃん!」とか。他に「そのシャツいいねぇ」とか。こないだは、一緒に喫茶店に行って待ってたら、車椅子の方が出てこようとしたので、私がすっと扉を開けて差し上げたら「うわぁ獅子くんは本当にやさしい!」とか。

ともかく見た「何か良いこと」をその小母さんは言葉にして褒めてくれる。うちの両親は私に対し、けなされこそすれ、一切そういうことがないので、私は卑屈な人間になってしまった。それで、私もあやかって、自分は他の人に同じように「言葉で褒める」ようになった。

たとえば別の小母さんに久しぶりに再会したとき「ああ、小母さんずっと会ってなかったから顔が見たくて(母に)ついてきたよ」とか。相手は喜んで「可愛いこという」と満面の笑みをしてくれた。

まぁ日本語能力だけでなく、欧米人が頻繁に、年寄夫婦になっても「アイラヴュー」と言い合うごとく、日本人はとかくプライドがあって、表現をしない。という文化的な問題も大きいかもしれない。

が、ともかく、同棲するにせよ夫婦にせよ「自分はこう思っている」ということを具体的に言葉にして話し合うことなく、放置して感情だけキレたりする。そういうコミュニケーション不足が積み重なって離婚騒動や夫婦喧嘩の原因になっているのを私は多く見ている。自分の身内のみならず、友人その他、あちこちで。

で、その原因が「日本語能力の低さ」にある。つまり、私がこの駄文でつらつらと書いてきたように、他の人々は、自分の心にある問題を言語化するのが、それほど得意でないことを私は見てきた。

自慢に取らないで頂きたいが、私はアスペルガー症候群の検査のため、知能指数を医者で測定したところ、「言語系IQ」というものが120あるそうだ。なので、たまに日本人同士なのに、言葉が足りない人の「通訳」をすることすらある。

私は、自分が何をどう感じているか、ということを、ほぼ100%言語化することができる。ただ、アスペルガーの特性上、省略するのが苦手なので、言わなくていい情報まで言い過ぎてしまうのだが。

逆に、これまで関わってきた多くの人々は、言葉が足りなすぎるか、あるいは、自分が感じている何かを言語化するのがとても下手だ。

同じ躁うつ病の、ある友人に「お互いの病気があって、治療のためには、ちょっと距離を置いたほうがいいかもしれない」と伝えたら、彼は「そうなると、僕には、獅子さん以外、腹を割って話せる友人が居なくなるので寂しいです」と言ってくれた。

かつての彼はそういう「気持ちの言語化」が苦手だった。が、それを聞いて、2つの意味でうれしかった。純粋に私にそう思ってくれたことと、彼が、自分の気持ちを言葉にできたことを、だ。(これまでは、彼は、たとえば「寂しいから、さしたる用はないけど話したい」みたいなことを言語化する力がなかった)

私でいうと、「眠いけど、時間をつぶすために、わざと無駄な長文を書いて発表したい、しかも読者にメリットを与える意図は今回ない。けど無料だしあまり気にしていない」みたいに、思っていることを言葉にする力のことだ。

さて、当初の目的どおり、22時頃に書き始めて、いつの間にか23時をちょっと過ぎてしまっている。また字数としても無駄に長い。

エッセイストを目指すなら、この3分の1くらいで、プログラミングのエピソードとか割愛したり、他の無駄ももっと省くべきだろうが、今回はこのへんでお開きとさせていただこう。

本稿で言いたかったことを、もっとキレイに削った「日本語力は大切だ」って感じのエッセイを、短く書き直すのが理想的かもしれない。

このバージョンは酷い出来だと思うが、今回は「習作」扱いで、あえてこのまま発表しておく。

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