見出し画像

自分に裁量があるのは「自分ができるだけ気分よく過ごせるように整える」ということくらい

とある、こじれた挙句清算した人間関係について、10年くらい考えつづけてきた(10年も考えるのは異常だと思うけれども、それだけ切ることが難しい間柄ということだ)。

渦中にあるときは、関係者の全員が全員とも「そっち(自分以外の誰か)が悪い」と思っていた。

けれど、何度も思い返すうちに、各人それぞれが未熟だっただけのことで、「仕方ない」につきるなあと思うというか、諦めに近いような心持ちになってきた。

おそらく、誰一人として、明確な悪意があったわけではないのだ。
むしろ、よかれと思ってやっていることがほとんどだったろう。
だが、その「よかれ」は、ことごとく裏目に出た。
「よかれ」は、他のメンバーにとっては「望んでいない」ことだった。

つまるところ、価値観が、正しさが、脳の使い方が、それぞれあまりにも違っていたのだと思う。

だったら離れたほうがいいのだけど。それが極めて難しい場合もある。

形の違うものが同じ箱にぎゅうぎゅうに入れられて。
それぞれが、「おまえも俺と同じ立方体ならこの箱にラクに入るんだ、三角錐なのがいけない。なんとかしろ」と、無理難題を押し付け合っているようなものだったのだと思う。

隣の人の握りしめたこぶしを念力で開かせることができないのと同じように、他者を変えることはできない。

だから、相手の行動が気に入らないとイライラするのもムダだし、相手に気に入られていないからと悲しむのもムダであった。

となると、自分に裁量があるのって、「自分ができるだけ気分よく過ごせるように整える」ということくらいしかないのだと思う。
環境面、あるいは心理面で。

とはいっても、「むしゃくしゃしているけど気分よくしなきゃ!」みたいにコントロールするのもまた難しいので、煮詰まったら何かしら場面を変える(風呂、カラオケ、散歩とか)のがいいのかもしれない。

~2024年8月のメモから。11月7日加筆修正~

いいなと思ったら応援しよう!