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「りきみ」をとるコツ:得しようとしない/うまくいかなくていいや〜と思う
さまざまな場面で言われてきたのが「もっと肩の力を抜いて」「気楽に気楽に」などの言葉だった。
相手は私のために言ってくれているのだが、これを言われると、やるせない気持ちになってしまう。
「え、だって、りきんでおかないと、攻撃された時に痛みが倍増するじゃん」と。
私が子供の頃(昭和)はまだ「しつけなら暴力も仕方ない」みたいな風潮がバリバリにあったし、うちの父も叩く人だった。
母は体罰こそしなかったものの、全くわけのわからない理由で突然キレ散らかしたりする人だった。
だから、常に構えておかないと、身というか、心臓が保たなかった。
気をゆるめているときに急に夫婦喧嘩がはじまったり、とばっちりを受けて怒られたり叩かれたりすると、落差が大きすぎる。
全身から血の気が引いて、喉がひゅっとなって、息ができなくなるのだ。
とはいえ今は、大人どころか、立派な中年、普通に生きていれば叩かれたり怒鳴られたりすることもほぼない。
だから、常にりきんでおく必要などない。
むしろ、りきんでいるということは、体も頭も、動かしにくいということである。
だから、人々はアドバイスとして言ってくれる。
「りきみをとってリラックスしたら楽になるよ、もっと上手くできるよ」と。
でも、私には、りきみの、具体的な取り方がわからないのだ。
物心ついた時からりきんでいるので。
「ま、りきむのもしゃーなし」と思えればまだいい。
「力を抜くことができない私はダメなんだ」と勝手にネガティブ方面に疾走してしまうという悪循環もある。
ここのところ、あまりにも「肩の力を抜いて」と言われるので、なんとかしたいとは思っている。
りきみの正体
ということで前置きが長くなってしまったが、ここ二年くらいずっと、
「りきみって、どうしたら取れるのだろう」
「りきみの正体はある種の防衛であるにせよ、さらに分解していくと何なのだろう」
とぼんやり考えてきた。
これまでの人生とかふるまいを振り返ってみると「理想通りに物事を進めよう」と躍起になっていた時ほど、派手に頓挫したことに気づいた。
これこそが「りきみ」の仕業なのだろうと思う。
「スムーズに進めたい」という願望自体はおそらく誰にでもあると思う。
とくに変なものでもない。
私の場合は「いい結果を出し、その結果として、誰かに気に入られなければならない」がある。
つまり、「気に入られねばならぬ」のほうが大元なのだ。
そう、結局、原体験に戻るというか、「親に気に入られたい」がゆえのりきみ、だったのだ。
気に入られないと、心身の安全が確保されないから。
「上手くいかなくてもいいや〜」なんて、決して思えなかった。
上手くやらないと、確実に機嫌を損ねる。
それは子にとっては、ゆるく、死につながっている。
「うまくいかなくてもいいや」と思う
まとめると、「りきみをとる」ということは、「うまくいかなくてもいいや〜」と思える、ということなのだろう。
しかし、ここまで書いてもなお、なかなかそう思えずにいる。
まだ「うまく進めよう」としている。
それって、自分のためなわけだ。
うまく進めることで、誰かに気に入られたいわけだから。
それによって、安全を確保したいわけだから。
結局のところ、私は不安から、あるいは、自分自身が得をしたいがために、「りきんでいる」のだ。
「自分が、自分が」の我執なのだ。
ということは、「得しようとしない」ということが「力を抜く」ということの具体的な解の一つになるのだろう。
溺れている時にもがくと余計に溺れるもんね。
それと同じで、力を抜いたら簡単に浮上できるのかもしれない。