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『きみは転がりこんできたね、マイボーイ』
きみは転がりこんできたね、マイボーイ
ゴール目指して走ってきた長距離走者がタオルにくるまるみたいに
おくるみのなかにいて
助産婦に抱かれてぼくに挨拶なんかして
「よろしくお願いします」なんて
無理矢理お辞儀をさせられたりなんかして
きみはまだぼくが見えないんだろう、マイボーイ
ぼくの方からははっきりきみが見えるのに
きみはまだぼくがだれなのかも知りはしないんだろう、マイボーイ
ところがその見えない目をみたぼくは
きみが礼儀正しい赤子だとすぐわかったよ
分娩室入口のソファ
待ちくたびれてうたたねするぼくの夢を
かすめて通る急流の雲海 そして
あくびもせずに立ちつくす北画の峰々
ああ 流れる・・・ 流れる・・・
人も雲も流れていくのだ!
ああ だからこそ鴨長明には河内音頭が必要なのだ
流れることの自明さに重ねる
固有名詞の不動性を用意しなくては
そこできみはいったん
流一と命名されるはずだったのだが
まだ心もとない生命体に流れを導き入れるのは
流石のぼくにもできかねた
この謙虚な生命体にはサ行の音が適切なのだ
ぼくは意味論から始まる漢字命名法を即座に膝元へと押しやり
唇の上に五十音を組み合わせはじめる
五月男は二日後にそなえた天皇賞レースの参加馬にふさわしく思えるし
細雪では谷崎潤一郎だし
笹錦では食用にむいているようだし
いくらきみが採れたてで柔らかいとはいえ
三三〇〇グラムもの肉は
きっとぼくひとりでは残してしまうだろう
きみを産んだばかりの女は
「のどがかわいてビールを飲みたくなった」と
不謹慎きわまる言動をまきちらしている
これではまるで食べ放題のジンギスカン料理じゃないか、マイボーイ
ぼくらはきみの教育方法について
すでに数度にわたるミーティングを行い、
「淫蕩な女の子である場合、親としてはどのような態度をとるべきであるか」
また
親しい友人たちが最も懸念するように
「周囲の迷惑かえりみず、決断を生きることが人生であると考えるぼくに似た男の子である場合、
その元凶であるぼくはどのように対処しうるのか」などと討論し、
そのあげく
すべてはきみの生きる才能に依るのだ!
と結論した
まったくその通りだろう、マイボーイ
きみとぼくとは全く異なる生き物なのだから
眉の濃さがだいいち違う
放っておけば睦みたがる年少の恋人のように
ぼくの眉は一本に連なってしまうが
きみの眉は下書きが辛うじて残っているだけだ
きみははれぼったいまぶたをしているが
ぼくらは二人とも二重まぶたの明眸皓歯
異性に対するきみのチャームポイントはもうバーゲンセールの閉店間際だ
でもだからどうだっていうんだ、マイボーイ
余計なお世話じゃないか、なあ
きみがぼくの子供でなくても
彼女が産んだ子であることには間違いがない
しかし彼女は間違いを犯す女ではないので
やはり
きみはぼくの子供にほかならない
きみがぼくの子供にほかならなくても
やはりこの世界に転がりこんできたことには間違いがない
起きたことには間違いなんてないんだから!
名付け親にもなってやろう
ぼくの戸籍にも入れてやろう
「私が父親です」と名乗りでてくる嘘つきがきみを奪おうとするときまで
実の父親ということにもなっておいてやろう
良かったなあ、寛容な父親をもてて!
お互いにいい話というのは
そうざらにあることではない
ゆいいつ
ぼくと彼女が結ばれたことのほかには
ああ!
ぼくはまったくゆとりをもって感嘆する
きみか きみだったのか
ぼくらが待ちこがれていたのは
きみか きみだったのか
ぼくらを親として育とうという健気なやつは
きみか きみだったのか
彼女の両親が贈ってくれた布団で眠るのは
回転扉の向こう岸で
賓客を迎えるホテルボーイの物腰で
左手にまっさらのおしめを垂らし
ぼくらは恭しくお辞儀をする
きみときたら
ぼくらから生まれたということのほか
これといった芸もないのに
■見どころ、読みどころ■
この詩集の原型は、息子が幼稚園の年中さんだったときに、親の作品を展示するみたいな催しがあったので、そこに合わせて発表するために作ったものです。
ワープロで書いたものをコピーして大きめのホチキスでとまるくらいの幅にわけると5分割となりました。表紙には、息子の一見するとなにであるかは判明しないけれども説明を聞くと納得できるような殴り書き風のイラストが添えられています。
各詩編には、「見どころ、読みどころ」と題するショートエッセイがついているのですが、SSWとしてデビューアルバムを出す際に、「詩の朗読も入れていいですか」という提案が通ったので、原本から取り外したものを元に戻さなかったため、オリジナルのものは紛失してしまいました。(こういうとこですよねw)
『現代詩手帖』の1985年の10月号(たぶん、です。なぜか手元に見当たりません、こういうとこですよねw)に掲載されました。
これらの詩編は、もっぱら息子と父のことを書いているので、わたしは構わないけれども本人はあんまり世間に知られたくないだろうなという、父親としてのプライバシー配慮によって数十年眠っていましたが、数年前に、『きみは転がりこんできたね、マイボーイ抄』として数を絞ったものを個人蔵書として2冊手作りで作ってもらい、本人と両親(われわれ夫婦のことです)とで1冊ずつ保管するにいたりました。もうこれでこの作品も日の目を見ることもなかろう。詩編よ、安らかにわれわれの胸で眠れ。
ですが、もう彼もそろそろアラフォーなので、時効を発生させてもよいのでは、と思い返し、noteで発表することとします。
おお、なんか絶対オリジナルのショートエッセイより踏み込んだ内容となってしまったが、許せ、息子w!